も実にうまい。まずいなどという分子はまるでない。どの一字をとってみても巧妙である。そしてやはり唐代の余韻がある。新鮮ではあるが、唐代からの二王や顔真卿の縄張りをそう遠くは離れていない。どちらも妍媚《けんび》だ。ところが黄山谷と来るとまるで飛び離れている。黄山谷はむしろ稚拙野蛮だ。顔真卿の影響をうけているといわれ、なるほどその趣もあるが、顔魯公よりも自由だ。勝手次第だ。一字ずつみると、その筆法は実に初心で、まるで習いはじめの人のように筆をはねたりする。馬鹿にのんびりしていたり、又くしゃくしゃと書きつめる。線をたるんでいるように書いたり、横に曲げたり、字のつづきも疎密にかまわない。行が片よったり、字くばりがでこぼこだったり、字の大小も方向も気にとめない。そして一々ぎゅっとおさえて書く。何しろひどく不器用に見える。
それでいて黄山谷の書は大きい。実に大きな感じで、これに比べると蘇東坡も米元章もなんだかよそゆきじみて来る。何よりも黄山谷の書は内にこもった中心からの気魄《きはく》に満ちていて、しかもそれが変な見てくれになっていない。強引さがない。よく禅僧などの墨せきにいやな力みの出ているものが
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