ら、已《や》むを得ず昨夜のスケッチを牛太郎に見せると、まあ、若太夫さんでしょう、ということになった。
 いわばそれが病みつきというやつで、われながら足繁く通った。お定まり、夫婦約束という惚《ほ》れ具合で、おかみさんになっても字が出来なければ困るでしょう、というので「いろは」から「一筆しめし参らせそろ」を私がお手本に書いて若太夫に習わせるといった具合。
 ところが、阿部次郎や木村荘太なんて当時の悪童連が嗅《か》ぎつけて又ゆくという始末で、事態は混乱して来た。殊に荘太なんかかなり通ったらしいが、結局、誰のものにもならなかった。
 一年ばかり他所へいってしまって、又吉原へ戻って、年が明いたので、年明けの宴を張った。
 阿部次郎が通ったのが判った次第は、彼がやってきて、談|偶々《たまたま》その道に及び「君と僕とは兄弟だぜ」といったことからである。よくあることだが、私にとっては大事件だったわけだ。
 若太夫がいなくなってしまうと身辺大に落莫寂寥《らくばくせきりょう》で、私の詩集「道程」の中にある「失はれたるモナ・リザ」が実感だった。モナ・リザはつまり若太夫のことで、詩を読んでくれれば、当時の心境が判って呉れる筈である。


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  失はれたるモナ・リザ

モナ・リザは歩み去れり
かの不思議なる微笑《ほほゑみ》に銀の如き顫音《せんおん》を加へて
「よき人になれかし」と
とほく、はかなく、かなしげに
また、凱旋の将軍の夫人が偸見《ぬすみみ》の如き
冷かにしてあたたかなる
銀の如き顫音を加へて
しづやかに、つつましやかに
モナ・リザは歩み去れり

モナ・リザは歩み去れり
深く被はれたる煤色《すすいろ》の仮漆《エルニ》こそ
はれやかに解かれたれ
ながく画堂の壁に閉ぢられたる
額ぶちこそは除かれたれ
敬虔の涙をたたへて
画布《トワアル》にむかひたる
迷ひふかき裏切者の画家こそはかなしけれ
ああ、画家こそははかなけれ
モナ・リザは歩み去れり

モナ・リザは歩み去れり
心弱く、痛ましけれど
手に権謀の力つよき
昼みれば淡緑に
夜みれば真紅《しんく》なる
かのアレキサンドルの青玉《せいぎよく》の如き
モナ・リザは歩み去れり

モリ・リザは歩み去れり
我が魂を脅し
我が生の燃焼に油をそそぎし
モナ・リザの唇はなほ微笑せり
ねたましきかな
モナ・リザは涙を
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