巣」、雷門の「よか楼」などにもよく集ったものである。
三州屋の集りの時は芳町の芸妓が酒間を斡旋《あっせん》した。
パンの会は、当時、素晴らしい反響を各方面に与え、一種の憧憬を以て各方面の人士が集ったもので、少い時で十五六人、多い時は四五十人にも達した。異様の風体の人間が猛烈な気焔をあげるので、ついには会場に刑事が見張りをするようになった。
詩人では当時の名家が殆んど顔を出したし、俳優では左団次、猿之助、段四郎、それに「方寸」の連中、阿部次郎はじめ漱石門下、潤一郎、荷風の一党など、兎も角盛なものであった。
松山省三が「カフエ プランタン」をはじめたのもその頃であり、尾張町角には、ビヤホール「ライオン」があって人気を独占していた。ライオンではカウンター台の上に土で作ったライオンの首が飾ってあって、何ガロンかビールの樽《たる》が空くと、その度毎にライオンが「ウオ ウオ」と凄じい呻《うな》り声を発する仕掛であった。
「カフエにて」と題する当時の短い詩に、
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泥でこさへたライオンが
お礼申すとほえてゐる
肉でこさへたたましひが
人こひしいと飲んでゐる
○
無理は天下の醜悪だ
人間仲間の悪癖だ
酔つぱらつた課長殿よ
さめてもその自由を失ふな
[#ここで字下げ終わり]
というのがある。
永代橋の「都川」で例会があった時、倉田白羊が酔っぱらって大虎になり、橋の鉄骨の一番高いところへ攀《よ》じ登ったが川風で酔いが醒《さ》めて、さてこんどは降りられない。野次馬がたかって大騒ぎになったことがあった。白羊の眼が悪くなったのは、たぶんこんな深酒が祟《たた》っているのだろう。
○
「パン」の会の流れから、ある晩吉原へしけ込んだことがある。素見して河内楼までゆくと、お職の三番目あたりに迚《とて》も素晴らしいのが元禄髷《げんろくまげ》に結っていた。元禄髷というのは一種いうべからざる懐古的情趣があって、いわば一目惚れというやつでしょう。参ったから、懐ろからスケッチ ブックを取り出して素描して帰ったのだが、翌朝考えてもその面影が忘れられないというわけ。よし、あの妓をモデルにして一枚描こうと、絵具箱を肩にして真昼間出かけた。ところが昼間は髪を元禄に結っていないし、髪かたちが変ると顔の見わけが丸でつかない。いささか幻滅の悲哀を感じなが
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