ようとしているのである。もはやここでは、巨人のような機械構造が民族の語部として、立上ってゆくのである。油のよくひかれた、とぎすまされた精密機械が音もなく完全に動いてゆくように、わが図書館は自らを訓練しようとしている。これは、機械におびえている世紀の恐怖に立ち向って挑戦している眼に見えない闘いともいえるのである。
 今、C・I・E図書館が、ライブラリーと呼ばれるよりも、インフォーメーション・センターと呼ばれている事は注意すべき事である。本に関係をもつよりも、情報行動の集団的中心として、図書館はその姿をかえつつあるのである。
 私はこれまで図書館は三つの考え方をもって歴史の中に進展して来たと思う。第一は「文庫としての図書館」である。第二は「百貨店としての図書館」、第三は「情報網としての図書館」である。
 第一の時代は、図書館といえば、円天井のあるシーンとした、いかめしいお寺か、教会堂のような図書館である。事実外国の図書館も、必要もないのに何処でも中央に円天井をもたねばならぬ事としてその様式をとっているのである。アメリカの国会図書館ですら、旧館はその様式をとって不便をしのんでいるのである。かかる時代の図書館は、お経堂やバイブルの注釈書がそうであるように、人に見せるよりも古い本が集まっている事が大切であり、そのためには、なるべく人に見せない事が保存のためには一等よいのである。日本の大学の図書館が学生を書庫に入れないようにするといってC・I・Eの或る人が笑っていたが、全く、日本の図書館はサーヴィスについて考えはじめたのは最近の事である。
 我国の図書館には未だ「……文庫」の形式が残っていて、それはサーヴィスをするよりも保存を心がけているところの「庫」でしかないのである。一つの本をかりるのに数日間の書類と印判を要するのがある事はまことに残念である。本人達は大真面目にそうなのであるし、この啓蒙に未だ数年間を要すると思われるのである。その図書館が国民の税金でまかなわれている事がほんとうに判るまで、その人達は、昔さながらの何か特別の「位」にいると思い込んでいるのにちがいないのである。
 アメリカのベンジャミン・フランクリンのつくった図書館は、自分達の本をもちよってつくったのである。この出発こそがほんとうの二十世紀の図書館の本流の源泉である。
 喫茶店のような図書館、百貨店のような図書
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