肉にも、取調べの最後の日、主任検事は、広島の原爆の講義を被告から聞くために検事団を召集して、黒板を前にこれを学ばねばならぬというような醜態を演じていたのである。陸軍と海軍がばらばらであり、軍部と内務省がばらばらであり、研究者と研究者がばらばらなのである。それでどうして、十万人の集団単位の組織研究をしていたアメリカに勝つことが出来よう。今にして尚、湯川博士は、アメリカに行かなければ実験組織の中に展開してゆく湯川理論を発展する事は出来ないのである。
 アメリカが日本をリードし、制している根本的なるものは、個人的なものの考え方に対する集団的なものの考え方において、遙かに一歩先んじているところにあるかと思われる。
 こういうと、嫌な顔をする人々の顔が、眼に見えるようであるが、好むと好まざるにかかわらず、この集団的な生き方、考え方を、正しくものにしなければ、世界の水準の新しい日本の位置を保つことはできないのではあるまいか。
 この激しい急流の、一方に高まりつつあるもの、そしてそれが低きにしたがって流れている大いなる流れは、この個人から集団への道であるかのようである。
 そこで、この集団の生き方、考え方として、どんな事が、私達の眼前にあらわれて来ているであろう。ちょうど、個人がものを考えるように集団がものを考える時はどうして考えるのであろう。早くいえば、学校で、会社で、議会でやっている「委員会」がそれである。
 集団は「委員会」でものを考えているのである。委員会の事務局はそれが都合よく考えるように世話をするところの、個人でいえば身体のようなものである。日本では、この集団としての研究の事務局が未成熟な場合があるのである。
 更に次に個人がものを記憶するように、集団はどうして記憶するのであろう。ここに図書館が問題となるのであるが、カード記号の組織で記録する事が集団機構のものの憶え方なのである。日本全国の図書館の綜合目録、すなわち全部の本のカードを一カ所に集めるという国立国会図書館法の命ずるところのものは、こういう考え方の中核をなすものである。
 ちょうど昔、語部《かたりべ》というものがあって、もの憶えのよい個人が歌のようにして歴史を憶えていたのに、今、民族を単位として、巨大な組織体として、図書館が、綜合目録で、またマイクロ・フィルムによってそれを交換しながら、全記録を残すことを試み
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