の溶融体を透してその視覚の自由を獲得せんと焦慮している。
近代人がレモネードをすすりながらガラス窓の平面を透して、往来する街路をながめている時、そこに繰りひろげられる光の画布は近代人のもつ一つの「壁画」でなければならない。動く壁画であり、みずから展開するかぎりなき絵巻であり、時の中に決して再び繰り返すことなき走馬燈でもある。集団が集団みずからを顧み覗き込むために彼らはガラスをもったといえるであろう。われわれはあの雨のハラハラ降って小さな音をたてるガラス戸をのみいっているのではない。街角を強く彎曲している巨大な建築素材としてのガラスに呼びかけているのである。巌壁のように立ちあがっているガラスの壁にものをいいかけているのである。それは見る一つの性格である。
かくて、技術が、その意味における Kunst がみずからの歴史的必然被担性を透して、見る自由とみずからの美を見いだすことの中に、芸術の意味がある。
封建的宗教的社会機構より自由通商的資本主義が立ちあがり、それに関連して、壁画的絵画の構造より画布的独立をもったことはあたかも音楽が宗教的封建的儀礼に制約されていたものが十六世紀に初めて
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