ある。実に血みどろな封建ボスとの闘いの均衡の中で行なわれているのである。青年達が、アトラスのように、土をもち上げようとした喘ぎの一つ一つの現象なのである。
二十二カ町村の中から、鞆も、呉も脱落した。米がないからと断わって来たから、農村に一握りカンパをして、五升の米をやるといっても、出来上らなかった。数千の労働者がいても出来ない街もある。二十五名でも出来る村もある。それは激しい闘いであり、一つの村で勝ったり、一つの村で敗れたりしているのである。
農村では勝敗の分け目は、バクチを打つ青年のパーセンテージで定まるのである。今日読書会に出た青年が、明日バクチを打つかもしれないのを防ぎ止めるところに、指導青年の苦心があるのである。二、三名の闘いに闘っている青年達は、よい講師が他村にもって行かれる事を実にくやしがる。「来年は、先生たのみます」と泣くようにいう。そんな時、実に私も泣けて来る。都会で論争と喧嘩ばかりしてる講師達が、どうして、この青年達の真中に飛込んで来てやらないのか。村は、村から村へ、反動攻勢のボス連の焼き打ちにかかって、次から次へ燃えてしまって、焼け落ちていっているのに。
街の青年層となると学生が増える。学生は妙に反動へと浮遊してゆく。正しさはよく判るが、潜在意識のあのファショ教育の残滓の奥の方から、囁くようにブレーキをかけるものがあるらしい。この蜘蛛の巣のようなものを手や指につかんで、ヤケを起している風が見える。この昏冥には、行くものが帰るものであり、帰るものが行くものであるという、「西田さんの渦流《ウィルペル》」(深田康算先生はそう呼んでいられたが)は恰好のゆりかごとなり、青年達をそれに吸い込んで行くのである。小学校の先生達がまた、この快いリズムの中に回転しながら吸い込まれていっている。そこになると労働者青年の哲学講座は違う。彼等はまずカントの線を学びたがる。カント講座が聴衆を最も長く、多く、ひきつける。そしてそれの弁証法への契機を追い求める。そして弁証法を、腹の底まで、自分のものとしたいと、いくらでも貪欲に追求して来る。
只、全体に田舎の労働者の青年達で、話すのに注意しなければならないのは、(一)[#「(一)」は縦中横]あまり片仮名(外国語)を用いないこと。(二)[#「(二)」は縦中横]一度に三つより多くの主題を話の中に盛らないこと。(三)[#「(三
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中井 正一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング