面の中に対象をうつしかえる可能性をもっているのである。これは知識を個人的主観の意識中にとじこめる方法である。プラトン型、ディオゲネス型の何れもこれを足場に政治行動から遊離する基盤をもっているのである。アリストテレス型もその行動的矛盾を誤魔化すことができるし、またソクラテス型では、知識の孤独化への契機ともなってくるのである。
 この世界観的方法論においては、プラトン、アリストテレスに共通な現実から遊離したアイドスがあるという考え方である。身近にいえば「理論的にはこうだが、実際はこうなのだ」という時の理論と実際は分離しているという考え方、それをうずめるのが政治であるという方法論的立場である。この「観察と行動」「理論と実際」が分離しているという考え方自体の中に、知識自体が政治婢であり、そこでもって、遊離した支配を受けてもしかたがない。あたかも妾的取扱いをうけるゼスチュアがそれみずからの態度の中にあったともいえるのである。
 哲学そのものが、知識そのものが、今や、新しくその態度そのものを、方法そのものを革めるべき時に面している。その事を、哲学では哲学の危機と叫んでいるのである。
 以上、知識を
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