ーセントかは、その職にありながらプラトン型に何かほかに凝るものを見つけるか、ディオゲネス型にカストリを飲むかしながら、やはり、その知識の奉仕をアリストテレス型に能吏として行なうという事となるのである。更に一層凄惨となってくるのは、かかる遊離すなわち悪いこととは知りながら毒を喰わば皿までと収賄し、巨大化し、その権力者をその知識をもって簒奪せんとすることが起るのである。宦官的官僚こそは、知識と政治の妥協的遊離の涯と考えてよいと思うのである。何れの歴史にも、かかる記録に充ちみちている。この遊離のアンチテーゼとしてあらわれる類型がここに最後に残ってくるのである。
ソクラテス型[#「ソクラテス型」は太字](捨身的遊離) 理論の示すなすべき行動は客観的には唯一つである。しかし政治的行動につっこむにあたっては、自分の死をも意味するという場合があらわれてくる。それにつっこんでゆくことは、政治的行動そのものであるが、死んでしまえば、あたかもそれは遊離にも似ている。しかし、ソクラテス、ジョルダノー・ブルーノーその他かかる行動の中に身を挺した知識人は決して少くはないのである。しかし、遊離としかほかに表明が
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