ウスのごとくローマ皇帝の位、すなわち政治のど真ん中にいても、心はその世界が嫌でたまらず、のたうちまわりながら、その世界から逃避しようと、彼の中の「知識」は叫びつづけている。奴隷であるエピクテートスと、奴隷使役者であるマルクス・アウレリュウスが、同じこのディオゲネス的逃避行の中にもがきにもがいているのである。
 制度が凄惨なる様相をおびているとき、知性が裂目をよぎる光のように真実を見せることがある。「ただ一つの事が私を苦しめる。――人間の構造が許さないことを、私は何か企てているのではないか、そういう心配である。根本的に全く許されないこと、手段において許されないこと、また、ともかくも現在の場合許されていないことを企てているのではないかという心配である。」とアウレリュウスは心ひそかにつぶやいている。そして更に「お前はいつでも自分自身の体のうちに逃避できるはずだ。……殊に自分の内部が整理されていて、そこに入りさえすれば、大静寂の真ん中に坐り得る人にとってなおさらである。この静寂は、私の目には、りっぱに整頓された心である。」(『わが心の日記』、大原武夫訳)
 しかし、アウレリュウスのこの言葉の背
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