いていることへの驚きが横たわっている。この法則を発見し伝えてゆく役割をもつ職業的階級が知識人である。
法則が客観的存在のみならず、人間と人間の関係にもあるらしい事に気づき、ここに法律を創る事が、専門的任務となってきたのである。しかし法律は支配するものの様相で変ってゆくし、変えることも出来る。落下の法則のように簡単でなく、それをつくるものも真の民主主義国家の出現するまでは、使役さるるものとしての知識人がつくっていたのである。民衆がむしろ実験台となったのである。使役さるる知識人は、奴隷であり、禄を喰むものであり、給料をもらうものである。かくて、非民主主義時代の知識人は隷属的地位であるとともに、支配者によって、客観的真実及び大衆的幸福が拒否さるる可能性があるのである。この拒否に面して、前に見る四つの遊離の様相をもたらしているといえるであろう。
第二には知識の問題それ自身に横たわっている条件がある。これまでの哲学的態度が一つの方法論になっていた。すなわち知識が観察の上に成立し、その観察している態度を更に観察することを要するという構造をもっている。これは行動そのものから、自己を除外して、意識面の中に対象をうつしかえる可能性をもっているのである。これは知識を個人的主観の意識中にとじこめる方法である。プラトン型、ディオゲネス型の何れもこれを足場に政治行動から遊離する基盤をもっているのである。アリストテレス型もその行動的矛盾を誤魔化すことができるし、またソクラテス型では、知識の孤独化への契機ともなってくるのである。
この世界観的方法論においては、プラトン、アリストテレスに共通な現実から遊離したアイドスがあるという考え方である。身近にいえば「理論的にはこうだが、実際はこうなのだ」という時の理論と実際は分離しているという考え方、それをうずめるのが政治であるという方法論的立場である。この「観察と行動」「理論と実際」が分離しているという考え方自体の中に、知識自体が政治婢であり、そこでもって、遊離した支配を受けてもしかたがない。あたかも妾的取扱いをうけるゼスチュアがそれみずからの態度の中にあったともいえるのである。
哲学そのものが、知識そのものが、今や、新しくその態度そのものを、方法そのものを革めるべき時に面している。その事を、哲学では哲学の危機と叫んでいるのである。
以上、知識を
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