に注意すべきは、持って帰らすべきテーマは四つ以上もあっては、その重量とカサで、ついでに全部取落してしまうのである。記憶というものは、たくさんの中から二、三を取上げるものではない。ある量以上になると、全部落すことが学問上でも実験ずみであるが、私もそれを再び確認した。三つ位のテーマをくりかえしいって、それに具体的な例をつけて、それを身振りをつけて面白可笑しくブッつけて、更に、それを数語の標語に緊めあげて、しっかり手にもたせて、手でその上を握ってやるのである。
 例えば、封建制イデオロギーなどといったら彼等は、そんなハイカラなものは、またはそんなムツカシイものは自分にはないとソッポをむいてしまうのである。「見てくれ根性」「抜駆け根性」と類型化すると、「それなら私の中にありますわあ」と笑いだすのである。しからば「何故それが悪いのか?」「みんなもっている当り前のことじゃないか」と考えてくる。そこで宇治川の先陣の一席を、「やあやあ我こそは……」と声高らかにやって馬を走らせ、刀をひらめかせて、鮮洌な印象の中にそれが展開されて、彼等の口がポカンとほほえみと共に開けられて来なければ、こちらから投げ込むものは腹の底までは届かない。これが腹の底まで行かなくても、喉の辺りにつっかかっても、それはもうこちらのものである。

 私は、三カ月の敗衄の後に、更に腰をひくめて三カ月ジリジリと勝利への苦闘を一月、二月、三月とたたかった。ついに四月、七十人のカント講座の聴講者をつかんだ。つかんだというより、一人一人拾っていったのである。
「これはほんとだろうか」という、喜びとも驚きともつかぬ、ぼうっとするようなこころもちである。
 三原市にも水曜日の夜はカント講座が開かれ、四月から十一月まで、七十人が一夜もかけなかった。いつでも帰りは夜十一時四十分の復員列車であった。満員の車の扉の外に外向きに両手でつかまって、尾道市まで、深夜の闇の中をゴーゴーと帰って来るとき、自分の中にもまた昂然と沸ぎるものがあった。
 農家の人々の講演に出て、講堂一杯の大衆がキーンと緊まって、少しだまってみてもシーッと全堂寂まりかえってくる。こんな時が、文化運動にたずさわっているものの、何というか、しびれるような喜びとでもいう瞬間である。腹の底を何かヒタヒタと流れる涙のようなものが走って行く。
 何が楽しいといって、何か歴史を継いで
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