人で一時間ばかり待って、ついに放棄するハメに二度も陥ったのであった。いかにも気の毒そうに眼のやり場のない私を、なんにもいわずにじっと見ていた母が、私には夢の中で突然、物が巨大になる瞬間のような異常な存在のように、たとえがたいものとなって胸にしみてならなかった。
私はこの敗衄を三カ月つづけた。そして一度は、大衆が愚かであって、啓蒙の困難は何れの時代でも経験するところの、ヒロイックな悲劇性を帯びるものであると、いわゆる深刻型のセンチ性でもって片づける誘惑に惹かれた。しかしたとえ二人でも、母ともう一人の青年に語るこの苦痛の中に、私は一つ一つものを憶えていった。実験もしていった。
つまり、私は、大衆、殊に封建性そのものの中に沈澱している農村の子弟に対しては、いろいろの表現すべき秘密があったことを知っていったのである。彼等が、一番反発するのは、自分達のわからない英語、ドイツ語のカタカナが出てくることである。それに出遇うと実に不快な表情を示すことを私はだんだん気がついた。更に語らんとする大切なことを一度だけいって次に進むと、ハッと面白いと思っていても、それを握りしめないうちに取落してしまうらしいことである。必ず大切なことは、他のことばでいいなおして、二度ずついってやると、はじめてうなずいてついて来るのである。そしてそれに、必ず具体的な例を、実例をあげてやると、更にうなずくのである。この「例」は、彼等の身辺のものでなければならない。熟知した、しかも荒い構造の簡単な仕組みのものでなければならない。そして大切なことは、この「例」がどんなに例そのものが勝手に独り歩きして、頭の中で発展していっても、その本論の筋をでんぐり返して、とんでもない反対のところにまで連想しないように、考えに考えぬいて仕組まれなければならないことである。
講演がすんで彼等が、野畑でそのテーマを反スウする時、うかんで来るのはまず具体的な例なのである。だから「例」が勝手な反対な連想にまで導くと、議論はメチャクチャなところまで勝手に発展して、後で講演者は二、三カ月後で、痛烈な見事な反対の質問を浴びることとなるのである。そして、更にこの語らんとするテーマに、一つの憶えやすい「標語化された言語」をしめくくりとしてあたえることである。人口にカイシャする流行語となるようなユーモアに富んだことばを創造すべきである。そして更
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