にあとの月、菊に雪見にいたるまで、その衣裳まで、凝りに凝るという、上等なメロンにウィスキーを入れて四、五日冷凍したような、手の込んだ冷凍文化がここに三百年つづいていることは、何でもないことのようであるが、大変なことなのである。
 しかも、その冷凍が、この蒸しあつい一九〇〇年代に、一度に開放されて、野ざらしになっていることである。冷凍の常ながら冷たいまますぐ腐っていく可能性がじゅうぶんあるのである。それはそのまま、マイナスに転化する。
 この三百年のマイナスは、いうまでもなく、呂宋助左衛門頃(一六〇〇年)世界のどこにも、オランダにもイギリスにも負けない態勢にあった国が、ピタリとその発展を三百年の弾圧につぐ弾圧で、冷凍して、封建の大ピラミッドをエジプトの巨大さよりも、はるかに大きく高くきずいていったのである。
 一言にしていえば、この明治以後の百年ではどうしようもない封建性の残滓が、近代知識と同時に共存して、世界に類例のない滑稽な姿で、世界のスポットライトの前にさらされている。
 マッカーサー元帥が、日本を十二歳ぐらいの子どもだといったのは、このペコペコするチョンマゲ残滓が、あまりにも奇妙にうつったからなのであろう。
 三百年の冷凍文化が、三百年の過去を一度に、古めかしい博物館を白昼の街頭に土用干ししたように、一度に並べたてているのが明治、大正、昭和につながっている私たちの文化であり、大衆の立っている地盤なのである。
 そこで、「知識人」といっても、じゅうぶん眉につばをつけなければ、いただけないものをもっているのである。「抜け馳けの功名」、やあやあ我こそはという「見てくれ根性」等々、その尻には、変なものをいっぱい引きずっているのである。
 自然のパニック、人為的パニックの連続でこの三百年、否三千年を、滝壺の水のように、繰り返し、繰り返し、たたきつけられている農民は、この百年にできてきた「知識人」を、妙な目でいまだに見まもっている。
 この農民たちは、いまだ、思想といえるほどのものをもっていない。しかし、強い願いを、この二千年ももちつづけて、一度も自分たちの思いを表現したことがないのである。
 農民にあるのは、善良と残忍、信頼と懐疑、エゴイズムと濫費等々、個性というよりも、「矛盾的性格」である。三百年の二重の重圧は、彼らに世界に類例のない不可解な性格を出現している。
 あ
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中井 正一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング