離し、観客として自分を観察する。而して間もなく、獄裡の囚人が、扉に於ける覗穴から中を覗く看守の眼を見上ぐる時に感ずる様な恐ろしい感情を経験する。かかる場合には自己の眼が他人の眼と同じ様に恐ろしく思われる。われわれは自分自身をあたかも、岸のみが知られていて、その内部はこれからはじめて発見されるべき国がなぞの様に見るのである。……ある晴れやかなる日、哀れなる囚人は、自分の仕事場から覗穴を見上げて、そこから眼が消失せたのを認める。そこで始めて彼は呼吸し得る。生き得る。」
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この不安の凝視は、存在論で云うならば、本質的凝視とでも云う、如何にもドイツ的な、北方的ゲルマン的な、眼なざしを感ぜしめるものがある。
そして、それは、シェークスピアが、ハムレットを描いて以後、近代人の視覚の中に類型づけられるところの視覚であり、ドイツは、レッシングがそれをドイツに入れてから、ロマン主義的イロニーにまで盛上るのに一五〇年の立後れをした視覚でもある。
ハイデッガーの存在論も、この不安の凝視を哲学の中に再現している。そしてそれを、「生きた空間」(ロイムリッヒ・インザイン)と表現して、
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