それは、百貨店や、大新聞や大工場がやっていることである。
これが一九五〇年の段階の図書館である。
ところが、アメリカで起った一つの試みであるが、この大工場のような図書館が、只一つずつそびえ立って威張るのではなくして、民族を単位として、或いは、世界人類全体を単位として、凡ての図書館が大きな組織体となって、お互いの本のおぎないをし、カードを共通にし、その地方地方の特徴を生かし、また特殊性を生かしあって、組合って、大構造の図書館となることを試みはじめたのである。
国立国会図書館は、アメリカのこの図書館の考え方の方針にそって、アメリカの国会図書館の構造をまねて、国家の情報を一手に集める資料をあつめる中心となることが試みられたのである。
例えば、日本の全国の図書館の本の目録を、全部国立国会図書館にあつめることをしなければならないことを、法律は定めたのである。つまり国民はこの館に来れば、何処にどんな本があるか、いっぺんにわかるしくみをできあがらせようとしているのである。
また現に、日本の出版物は全部この館に納入することを法律は定めており、それの目録は印刷して、全国の図書館に流すことになり、昨年末から実行しているのである。こうなると、国立国会図書館は日本民族全体の、一つの目録整理室になっているようなものであって、全国図書館が一つとなって動いている好い例となるのである。
全国の重要新聞を映画のフィルムにうつして、国民にかわって残して置いて、人々が必要なときにそれを答えてやれることのできるためには、人の目に見えぬ苦労がいる。
ここでは、只本を読むはじめの図書館の考え方からすれば、三転して、新しいものとなってきたのである。大きな民族全体を人造人間にしたような、巨人の記憶作用としての図書館がここにそびえ立つこととなってくるのである。
昔、語部が、『万葉集』や『古事記』を記憶力をもって、語りつたえたように、今、目に見えない巨大な機械のような人間が、日本全体の図書館の網の目を通して、民族の前に立ちあがって行くことは、すばらしい一九五一年のうつつの夢ではないだろうか。全日本の図書館人は、六つのブロックのウォークショップを貫いて、この巨大な手をかため、足を鎧って、日本民族を封建の殻から引きはなつ、悲願の巨像を彫りつづけていることは、かの大同石仏に立ち向う数万の人々の幻の描くものに
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