は、この繋辞でもって、自分の意志を発表し、それを観照者に主張し、承認を求めるのである。
ところが、映画は、このカットとカットを、繋辞をさしはさむことなくつないで、観照者の前に置きっぱなしにするのである。観照者は、自分自分勝手の、胸三寸に潜めている願いをもって、それらのカットを自分でつないで見ていくのである。たといナラタージュで作者が文句をいっても、観衆はやはり勝手に、自分の目で見たものを勝手に自分がつないで見ていくのである。
この映画の文法に繋辞が欠けていることは、個人的芸術を守る人々からは、それをもってそれが非芸術だという根拠となるのであろう。また集団的芸術を許す人々にとっては、このことが新しい芸術としての一つの大きな特徴ともなるのであろう。
映画が、物質の眼、レンズで見た表象を無条件に、人間のもつ表象であるとして、言語に代わるものとすることがすでに、最初の冒険である。その次は、創る人が決して個人でなく、したがって、個人の言葉でなく、集団の創作としてそれが構成されていることが、第二の冒険である。
そしてさらに、これらの創作物を、つなぐ繋辞を失って、大衆のつなぐままに、すべての
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