る。横山大観が思いをこらして描くところの過程とは、はるかに異なっているのである。
さらに困ることは、これを創るにあたって決して一人の天才が創るのではなくして、監督のスタッフ、カメラマンのスタッフ、装置のスタッフ、やがては映画株式会社の重役陣のスタッフのどれもが欠けることのできない創作陣のスタッフなのである。
それらのものがうって一丸となる時、初めて、ちょうど一天才の個人的気分が緊張すると同じような、創作的雰囲気となってくるのである。創作人の単位がここではすでに集団なのである。
かかるものは、これまでの美学では解ききれない材料である。一九一〇年代は、だからこれを非芸術だといった。一九二〇年代は、これを半芸術だといった。一九三〇年ごろからこれは芸術といわれはじめたのである。一九五〇年で芸術であることに疑いをもつ人があるならば、必ずや過去の人とよばれるにちがいない。
しかも、大切なことは、この映画の時間は、画面と画面の移りゆく推移、カットとカットの連続で描かれているのである。言語の世界では、表象と表象をつなぐには、「である」「でない」という繋辞(コプラ)をもってつなぐのである。文学者
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