かんによって定まるともいえるのである。
 この新たなる瞳孔は一に自分みずから実に敏感にその歴史的段階の標準を記録するのである。一九三〇年のレンズは、一九五〇年のレンズと決して同じでない。うつしたフィルムもその聖なる歴史の一回性をそのまま記録する。またそれを取り扱った民族においてもまぎれることはないのである。ツァイスにはツァイスの見かたがあり、イーストマンにはイーストマンの見かたがある。しかもそのいずれにもせよ、春にうつせば秋にまちがうこともなく、夏にうつせば冬にまちがうことも決してないのである。季節的季感に加うるに歴史的段階をみずからいまだかつていつわった[#「いつわった」は底本では「いつわつた」]ことがないのである。
 それを乱雑につないだのは、監督ならびに編集者の芸術的良心の不足であり、この巨人の見る目を軽侮したのは、シナリオ・ライターのみずからの訓練の未熟さを示すほかの何ものでもなかったといえるであろう。
 集団が自分自身を観るにあたって、カメラもフィルムも、みずからを巨人的に創造しつつある。しかし、彼らは、「縛しめられたるプロメトイス」のようにまだその自由を得ていないというべき
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