。そのことが、百合は美しいということでもある。星が美しいということでもある。またそして自分がいとおしむべきものであるということを知るのである。
 今、秋になりつつある。そして、今ほんとうに私は生きているんだろうか。この「あっ」という驚きの感覚なくして、物を見ずして、どうして俳句ができようか。「寂かに観ずれば、物みな自得す」という芭蕉の感覚も一言にしていえば、「あっ」というこの驚きを、しかつめらしくいったにちがいない。
 この存在の中に、自分自身をひたす感覚、その驚きを人々に強要するために、「季感」が必ず俳句にいるといったのではあるまいか。
 かかる考えかたをするならば、いずれの芸術か、この切々たる存在への哀感なくして芸術そのものが成立しそうもない。どうして俳句だけにとどまりえようか。

 かのフランスの平和の闘士であり自由の政治家であり、しかもその戦いのために暗殺されたジョレースは、次のように書いている。
「時に私たちは、大地を踏むことに、大地そのもののように静かに深いよろこびを感ずる。いかにしばしば、小道を、野原をよぎって歩みつつ、自分が踏んでいるのが大地であるということ、私が彼女の
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