ナリオが、季感そのものを描かんとして書かれたということを聞かない。

 日本の俳句が、伝統的に、「季」がなければ俳句とみなされないということは、何を意味するであろうか。ありきたりの月並連中は、蝶は春、虫は秋ときめてしまっているが、こんなことはもちろんナンセンスな形式主義であり、かかる伝統に対して「季」のない俳句を作るということももちろん当然なことである。
 しかし、深く考えてみるならば、俳句に「季」があるということは、ほかのことをいおうとしてそのことを簡単にいい現わすために「季」が必ずいるということをいっているのではあるまいか。
「ああ自分はまさしく、今天地自然と共に生きてここにいる」という深い存在感がなければ、芸術が生まれないということをいいたかったのではあるまいか。
 自分が、ここに生きていると、えらそうな顔をしているけれども自分の身体の構造すら、はっきりわかっていないのである。宇宙の大きな動きに対しても何もわかってはいないのである。百合一本の花の構造すら、何一つわかっていないのである。このわかっていない多くのものの中に、何かあるらしいことだけが、われわれには感ぜられているのである
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