したるごとくその進行を停止している。むしろそこから私達はバトンを受取り彼等のゴールラインを私達のスタートラインにすべきではないかと思われる。

 2

 フッサールはその『論理的研究』において遊戯をもって「記号の位置転換的構成」の例としている。あるいは数学的意味の代入における「象徴的運用」として将棋の例を用いている。それは彼が遊戯の研究を目的とせずに、いわば偶然的にその思惟過程に現われしものにかかわらず、大きな暗示の影を遊戯の研究の上に投げるものである。
 すなわちそれは、遊戯の現象が我々の人間的構造、すなわちその機構的フンクチオンの深い象徴的運用として存在するのではないかということに対する問題の呈出である。ソッシュールは将棋の運用構造を言語哲学的構造に適用して、相似的代入に成功している。スポーツが存在の内面的組織構造の象徴的運用ではあるまいか[#「スポーツが存在の内面的組織構造の象徴的運用ではあるまいか」に傍点]? という問はスポーツの上に投げかけるべき親しき問であると私は考える。ことにスポーツが芸術の領域より寂しく放逐されている時においてなおさらである。またさらに近代性の一つの流れ
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