とオールとになるとき身は自ら水にアダプトして融合して一如となる。いわば水の構成的フンクチオンと身体的構成のフンクチオンが、深い関連の中に連続して無碍なるとき、その中にこそ、成長するフォーム、生身の型がある。それはコーチの百千万の警告もただ爛葛藤にして、ついに伝え得ざる底のものであり、一度その境にはまること、すなわち、働きそのもののみが告知るところのものである。
そのことは、内的自然の技巧としての身体構成がその力学的フンクチオンにおいてあらゆる虚言 〔Lu:ge〕 を脱落した時「見てくれ」の粉飾を放擲した時である。筋肉を主観とし、筋肉を客観とする血の構成がそこにその自らのはからいをすてて、純粋なる行為の中に自らを没したる時である。そこに「技術美」の最も深き根底が横たわる。
かかる意味でのフォームは、生身の形式である。生物におけるモルフェのごとく、成長してゆく一つの形態である。その意味のカラクテールでもある。極少の疲労により、極大の効果をあげるべく、筋肉繊維の運動的構成の目的化は、動植物のモルフェにおける合目的性でもある。それは働けるヴェゲテジーレン(植物化)である。それは浪漫派とは異った意味での「目的の国の戯れ」でもある、そしてその内面的評価として、自我が、自我の内面に無限に働く自分を見出すその感情はそれは芸術的といわんよりむしろ芸術を生み出す「力の感情」ともいわるべきであろう。「技術美」の内面には「芸術美」よりももっと奥のもっと深い感情が潜まされているとも考えられよう、いわば芸術創作の感情におけるごとくもっとより力学的である。
8
かく考えることで、スポーツの筋肉操作のもたらす快適の内面には、現象の原型に対する深い関連があるかのようである。そしてその原型の把握が、感覚の先導によってなさるること、いわゆる共通感覚(ゲマイジン)があらゆる存在の隅々より、潜れたる形相 Eidos を見付けること、またそれへの信頼が、スポーツの美的要素の深い前提とならなくてはならない。
我々は、すでに過去の思惟方法が形式[#「形式」に傍点]の名によって合法則的、すなわち「秩序」を、内容[#「内容」に傍点]の名によって生命的、すなわち「衝動」の概念を遺していったことを知っている。そして、それは、すでに乾いたトルソであり、しかも組合ったトルソであることを知るのである。
多くの芸術論が、この二つの概念の間に苦しんでいる。この場合、スポーツのフォームの概念は深い新鮮な暗示をあたえるものである。スライディング・シェル、あるいはラグビー等の近代スポーツの内面のフォームならびに組織《システム》をもつものは、「衝動ある秩序」である。あるいは「秩序ある衝動」である。それが、今新しき時代の成長しつつあるモルフェであると共に、新しき社会ならびに芸術の形式であり組織である。
その意味で我々は単なる「秩序」であるギリシャと、単に「衝動」であるロマンティクを後《あと》に見ながらより彼方へその進路を向けている。「英雄主義《ヒロイズム》より組織主義《ユニフォーミティズム》」へ、いわば「腹より腰へ」とスポーツ自身が動いてゆくその重き推移の中《うち》にすでに感覚が生長するアイドスを育み教え導きつつあるのを知るのである。
底本:「中井正一評論集」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年6月16日第1刷発行
底本の親本:「中井正一全集 第一巻」美術出版社
1981(昭和56)年4月25日発行
初出:「京都帝国大学新聞」
1930(昭和5)年5月5日、21日、6月5日
入力:文子
校正:鈴木厚司
2006年7月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全5ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中井 正一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング