スポーツの美的要素
中井正一

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)現《うつ》つの

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)たとえ一|吋《インチ》であれ

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「競争性」に傍点]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Technik der Natu_r〕 の
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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 スポーツが人々によって研究され始めたのは、それを遊戯の一部としてであった。遊戯論については多くの人々が関心をもっている。それを今類別するならば大体五つに分れるかと思う。まず第一は剰余エネルギー論というべきものである。シラーが『人間の美的教育論』にのべており、スペンサーがその『心理学原論』にのべ、ジャン・パウル、ベネケ、シェリー、グラント・アレン、カール・ミュラー、ハドソン、パウル・スーリアン等が支持するところのものである。それは余れるエネルギーの放散のために、有用ならざる行為を人間がする。それが遊戯であるという考え方である。シラーの考え方はこれを浪漫派の愛好する甘き無為にまで関連せしめる。
 第二は生活準備説ともいわるべきカール・グロース、チーグラー、ワイズマン等によって支持さるるものである。それは第三の自然的遺伝的本能説(ウォール、ヴント)と関連して、動物の生存本能としての猟、戦、育児、模倣等の一つの表現であると考える。
 第四はラツァルス、スタンダール等の気晴らしのためという考え方、すなわち一方の機能の過度の使用によって来る疲労を他の用いざる機能の使用によって回復せしめるために遊戯があるという考え方である。
 第五はパトリック等によって支持さるる精神分析的に「抑圧の開放」の意味における遊戯の解釈である。
 私は今スポーツの美的要素を分析するにあたって、これらの遊戯論の一々に深入りすることをむしろ避けよう。ただそれらのものが一つの本能であるとして記述され、そのもたらす快感は本能の満足にあると解釈されていることを注意しておきたい。本能の概念は、リップスが自らそれを学問の屑籠といったがごとく、それに投ずることであたかもすべての問は掃蕩されつく
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