きずる意味において、この外的現象は彼等クリューの内面判断構造を具象化する。内なるものを外に見出す意味で深い象徴である。蓋然判断の判断自体の中にも身をもって拶入することで、判断は即意志の構造をもって可能を必然にまで止揚する。そこに観覧者の境地はこの中間領域にあるというべきであろう。
これまでのべたのは競争性の美的要素である。次に筋肉操作の美的要素についてのべよう。
6
筋肉操作の美感。
「健康状態に在ってわれわれが自己の奥底の声に耳をすますとき、秘めやかな、甘美な歌というべきものが聞える。生きていることを感ずること、そこにこそ、すべての快感の根底と同じく、すべての芸術の根底があるのではあるまいか」とギュヨウはのべている。「生きていることを感ずること」すなわち生を urteilen する意味での反省[#「反省」に傍点]に対立して beurteilen 評価する意味で感ずる[#「感ずる」に傍点]ことは、たしかに美学の最も深い根底を構成する。ただ問題はその評価のメルクマールが何であるかにある。近代美学においてカントおよびその発展者であるコーヘン等の立場がその哲学的体系に関連して「合法則的であること」をもって規準としたに対して、スペンサー、リップス、フォルケルト等の心理学派ならびにむしろ批評家というべきギュヨウ等が、「生命的(人間的、自然的)であること」をもって規準とせること、ならびにその各々の立場で過去の美学を解決せんとすることは注目すべき現象であると共に、現代の美学にとって、ことに新しき美の感覚に当面せる現代の美学にとって止揚さるべき深い課題でもなければならない。
「合法則的であること」と「生命的であること」との間には何等関連がないであろうか。この問題はスポーツの美学的考察においてその「型《フォーム》」と「感じ」あるいは、「イキ」との相関性において深い興味を引くところのものがある。
カントにおいては、「自然の技巧」〔Technik der Natu_r〕 の概念は彼の第三批判の出現に対するかなり重要な史的要素となっている。彼において「自然の技巧」とは、主観の認識すべき現象自身の中にすでに理性的合法則性が内在することを意味し、すなわち客観の中にある自由性を意味するのである。そして、それへの端的なる反省が美的感情を構成するのである。かかる意味で「自然の技巧」は「理
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