現象の数量化においてなされるところのごときものがそこに在る。
しかも、この場合現象とは人間の神経、筋肉あるいは肉体的諸機能の上に限られる。一言にしていえば数量化されたる血液構成である[#「数量化されたる血液構成である」に傍点]。The better won! たとえ一|吋《インチ》であれ一秒であれ、いやしくも「差」あるならばそれは誇りか諦めかを意味する。この数の厳粛とその運用性、そこにスポーツの深い組織がある。ホイッスルが鳴って、一斉にラガーが動き始むるとき、球がそのいずれかの一人に落ちた瞬間、味方の十四人は勿論、敵の十五人の一々があたかも深い数学のごとく黙々とそのあるべきプレイの位置に動いているのを見入る時、球を中心として、見えざる力の波紋が次から次へと二方向的に作用するのを見る。そして、得点はともあれ瞬間息もつかせざる関係の構成、一人のTBに渡すハーフの一擲は十四のラガーに呼懸ける「見えざる関係の構成」でなくてはならない。もし「構成の感覚」が今新しき芸術の要素であるならば、タッチラインをカンヴァスとし、スパイクをピンゼルとするかのラグビーは瞬間崩れゆく現《うつ》つの夢ではあれ、しかも常に永遠を背負わないと誰がいい得よう。
かかる意味で、ライプニッツがいえるように音楽が「音の数学《マテマティク》」であり、また建築が「凍れる音楽《ミュジィック》」であるならば、スポーツはまさに「燃ゆる力学《デイナミィク》」であるであろう。
そして我々はその深き叡知的の計量性の中に瞬間崩れゆく美しさを把掴するとも考え得るであろう。観る者においてもしそうであるとするならば、一々のラガー自身においては、自らが深い数の要素として、構成の内面に身をもって沈みゆくのである。その悦楽はあらゆるスポーツで一般にユニフォーミティーと呼ばるる喜びである。激しき情熱、情熱の内面の秩序、いわば情熱の数学でもある。
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しかし、かくのごとき喜びは競争性自体のもつ組織性、数学性、力学性に関連する対象的美感にしかすぎない。ここにさらに勝敗そのものに関する感情構成がある。
競争者ABにおいて「Aが勝つ」の判断と、「Bが勝つ」の判断が相互否定的であるにもかかわらず、同一主観の判断構造の中に共在する場合、論理的判断としてはウィンデルバンドのいわゆる無関心的零点としての判断型態であるにもかかわらず、その二
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