る建築である。重力が加速度のシュパヌングである意味で、すなわち自らの動きが自らの抵抗を生み出す意味において、自我は、自我の内面に受動としての自我を発見する。そして、それと永遠なる闘争をなすべく運命づけられていることを人の多くの哲学は教える。人の一つの行為が、その内面に無限なる群の(否定の否定、さらに無限なる否定としての)行為を胎《はら》むこと、その限りない集合、そこに存在の原現象がその相を露わにする。一つの「行為」とその「忍苦」、そこに存在の一角の暴露がある。引きゆがめられた微笑をもってそれを親しく嘗めるスポーツの内奥の愉悦は、その秘かな喘《あえ》ぎ、喘ぎ、喘ぎの喜悦である。
一本一本のオールを流さないこと、誤魔化さないこと、それはむしろ、いわるべき言葉ではなくして筋肉によって味覚さるべきものである。疲れ切った腕がなおも一本一本引き切ってゆくその重き愉悦は、人生の深き諦視の底の澄透れる無心にも似る。
その無心性は、よき練習と行きとどいた技術の「冴え」をもたらすものである。オールあるいは水に身を委ねた心持、最も苦しいにもかかわらず、しかも楽に漕げる境、緊張し切った境に見出す弛緩ともそれはいわるべきものである。あるまま思い切り行為して、しかもあるべき則にはまってゆく心よさである。いわばそれは、「コツ」、「気合の冴え」ともいうべきものである。この境の会得は一回にして、しかも常にある種の香のごとく、湧然とゲームの始終にまつわるものであり、忘却の底に念々絶ゆることなく働きかくるところのものであり、そして働きかくることによって、その忘却の底に自ら成長し、太り、熟し、老いてゆくものとも考えられる。その成熟が、すなわち「練習」のもつ深い意味であり、訓練、寂び、甘味み、あるいは慣るることの意味でもあろう。
すなわち「忍苦」はもはやその放棄しかあり得ない極みにおいて、何物かに身を依する。その対象は、スポーツにおいてはフォームと呼ばるるところのものである。
よくコーチがどうしてもフォームを修正できない選手をして疲れ切らしめることがある。その疲労の中に、しかもオールを引いている選手に対して「そうだ、その気持を忘れないように」ということがある。未だ自らのフォームを自ら意識している中はそのフォームは真のものではない。いわば「岸が気にかかっている」。すでにいわゆる彼等の「天地晦冥」ただ水
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