いる。何ものが豊饒な大地にふれることを妨げたのか、何ものが生命の源を塞いだのか、何びとも答えることはできない。何ものかが失われてしまった。それに気がついたものは人間の心だけである。心の不安に堪えずして目地を検《しら》べ、床を叩き、よろめきながら地下室に踏み込む。彼女は寒さに身を凍らし敷石の上にうずくまる。いつになったら意識が戻るのか、それまでは、そして一対の目が物に怯えて空虚を見つめる時のくるまでは、人間の心は故郷を失ったのである。
ムンクはこれらの何ものをも知らずに、漫然と画面に命じて、嫉妬といい、叫びといい、心配の感じといい、また灰とよび、発熱と称している。しかしその底を尋ねれば、そこには常に一つの物が隠れている、それはものに怯えた人間性である。」
これらのものはわれわれの三十年前の記録である。
彼の描くものの核心は、存在が愚直なる偶然性に見えてくる戦慄、ほとんど動きのとれない運命に対するケイレン、何ものか失われたる世界への恐れに充ちた承認であり、これから始まろうとする空虚の承認でもある。
ライフェンベルグはそれについて言う。「その中には偉大な準備があらわれている。そうして
前へ
次へ
全12ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中井 正一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング