タイムの記録が数週間の練習記録において必ず一つのリズミックなカーヴを描くのを経験する。それは野球における打数においてもあらわれるものであり、そのカーヴの底部を一般にスランプという不可解なる語をもっていいあらわしている。それは一人一人の体力においてもすでにあらわるるものがあるが、チームにおいてはその合成ならびに合成以上に一つの性格としてそのカーヴをもっている。そのカーヴの山に試合をもっていく技術が指導者の大きな役目でもある。それは決して数学的なあるいは物理的なものではなくして、微妙な精神力が鋭く働いている。一本の電報がそのスランプをも乱しうるものなのである。しかも、決して個人のいかなる孤立したる努力もがその集団の喘ぎ、苦しい脈搏、重い歩みを左右することは困難なのである。かかる潮の増減、波搏ちこそ、何ものもが解くことを遮断されたる深いリズムの内底でなくてはならない。重い重い多くの数かぎりない集団の地ひびきする足音、すなわちテンポ[#「テンポ」に傍点]あるいは盛り上がり[#「盛り上がり」に傍点]また世阿弥のいわゆるしづみ[#「しづみ」に傍点]ともいわるべきものなのである。いかなる楽器もが表現できない。トーキーが初めて表現できるかもしれないところの歴史の深い内面の暴露なのである。
 それはすでに歴史的集団的歩みのもつ反復性である。そこではボートにおけるように記録的報告と、それについでなされる企画的実験、それらのものが数学的機能的目算と、存在論的付託的目標によって繰り返さるるのである。常にそこでは、清算と企画、過去と未来が一つの実験性をもってそのテンポの中に混入する。それは単に機械的ではなく、また個人的でもなく、まったく集団的である。そして、単なる蓋然性にたよるものでもなく、また偶然性でもなく、必然性に向っての戦端である。
 それは来たるべき時代の歴史的形態においてすでにそうである。あらゆる計画は常にかかる記録的カーヴのリズムに向って厳粛であるはずである。
 それがはかりしれないのは、人間の無知、すなわち機能的凾数の計算の不正確と、付託的目標の見透しの不明のゆえである。記録と企画が、そのすべてを乗り越えるはずである。そして人間が何であるかを学び問い[#「人間が何であるかを学び問い」に傍点]、会得[#「会得」に傍点]していくのである。かかる喘ぎにおける呼吸が、人間なる無限なるア
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