ションの一つの姿としてあらわれる。存在論的リズムの解釈はその様式と共にかかる一点に凝集する。その美しさはその様式の美しさであり、その醜さはその様式の醜さである。リズムならびに韻律はかかる文化形態においては、かかる様式のもとに構造をもつ。そこでは自然と肉体現象の反復を邂逅のもつ美しさ[#「邂逅のもつ美しさ」に傍点]として理解する。宇宙的さまよいの、永遠の虚無の中に、二つのものが同一であることのもつ欣び、その偶然[#「偶然」に傍点]のもつ輝かしさ、瞬間[#「瞬間」に傍点]のもつおごそかさ、他のものでなくそれが自分[#「自分」に傍点]であることの尊さ、そこに韻律とリズムのもつ美しさがあるのである。自分で自分を求めてさまようそのさまよいの中にようやくみずからにめぐりあうことのできた悦び。そこに、時の再びの邂逅としてのリズムの本質を見いだそうとする。かくて永劫回帰こそ、真のいっとう大きな韻律となる。かかる存在への戯れをこそ、仮象存在《パラエクジステンツ》としてのリズムの現象として私たちはもつといえよう。念々に発見されゆく発見的存在としてリズムはその意味をもつのである。
しかし、かかるすべてのものはすでに個人主義文化における、否定されたる自我、孤独なる自分、距てられたる個人の上に成立するところの様式である。
今、しかし、すでに、その分裂の上に、さらにより大きな分裂が、その重圧を加えつつある。
5
今、一つの考えかたが残っている。
それは、歴史的考察である。
歴史が歴史の上に載っているごとく、時間が時間の上に載っているごとく、リズムもまたリズムの上に載っているのではないかという考えかたである。
あらゆる時代に時代の様式があるように、あらゆる歴史論が歴史それみずからの中に転ずるように、リズムもまた、時代の様式の中にその構造を変容《メタモルフォーゼ》しつつ発展するのではないかという問いは、実に数学的解釈ならびに存在論的解釈とは全然異なった構造をもつ。存在論で集団的現象が man の構造をもつことによって、問題が常に個人主義的形態をもってくる。レーヴィットによって、他の意味においてルカッチによって、ある程度までその方向への展望がひらけつつあるにはしても、本質的に解釈の視点が個人性をのがれることができない。そこで歴史的集団の問題がその方向より遮断されているのではないかと
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