であると考えらるるに至った「映画」は、考えればそれ自身一人の未知なる覆面の客人[#「覆面の客人」に傍点]である。何が人々を薄気味悪く思わせるかと云えば、その構成者が人間[#「人間」に傍点]でないからである。レンズを視覚とし、トーキーを耳と喉にし、委員会[#「委員会」に傍点]をその決意とし、企画的社会的組織をその血液とする影の如き性格[#「性格」に傍点]であるからである。また何が人々をひきつけ、それのもつ迫力に頬を押しあてさせたくならせるかと云えば、やはりそのもつ集団性[#「集団性」に傍点]であり、組織性であり、社会的集団的性格性[#「性格性」に傍点]である。
 しかも、この十年間がその好悪をあべこべに転換したのである。一方の人々はそれに不安をもちはじめ、一方の人々はそれに快い戦慄と緊張をもちはじめたのである。
 この映画があらゆる芸術に影響をもつにしても、この芸術領域に確立せる社会的集団的性格ほど大いなる示唆を与えるものはあるまい。
 言語的領域にこれに匹敵する社会的集団的性格を求めるとすれば、私は新聞[#「新聞」に傍点]の構造がそれに似ると思う。言葉が云う言葉[#「云う言葉」に傍点]より、書く言葉[#「書く言葉」に傍点]、印刷する言葉[#「印刷する言葉」に傍点]、電送する言葉[#「電送する言葉」に傍点]に転ずるにしたがって、それが美の世界に現われる時、常に意匠を変えている。それは電波によって組織づけられたる人間の集団である。或る時は短波長で世界の秘密に指をさし入れ、或る時は電波の速さを通信網の中に競うところの新しい感覚が社会的集団的性格[#「性格」に傍点]を単位としてここに生れはじめる。指令なる言葉が初めてこの領域で新しい装いをもって来る。しかもそれが表現過程の組織としてあることが重大なる機能をもつと思われる。ここではいわゆる技術[#「技術」に傍点]が心身の関係を乗越えて、機械と社会的組織の関係に於てある。ルポルタージュとしてのリアリズムが問題となる時、新聞はその巨大なる外貌を文学の領域に現わすであろう。映画と同じ様にそれが企業的利潤に制約されていることは一つの歴史的必然であって、この議論に於てはさほど苦にするに足りない。利潤函数をぬき去りつつそれを今考察すればいい。その配列の対比性、階調性はフィルムのモンタージュと同じ様に、新しきリアリズムのもつ企画性である。やがてその技術がその中の文体と共に新しきリズムとハーモニイをもつであろう。そして最も重大なことはそれが電波によって構成せられたる言葉の配列であることである。
 実際、人々はすでに、自ら気づかずしてそれを観照しつつある。ワイルドが文学に対して、「芸術が人生を模倣するのではなくして、人生が芸術を模倣するのである」と云った様に我々は、「人生を新聞が模倣するのではなくして、新聞を人生が模倣するのである」と云い換えることが出来るであろう。イロニカルに云えば或る場合「戦状を新聞が現わすのでなくして、新聞を戦状が現わす」とも云えるであろう。多くはそれは一つの美わしき制作[#「美わしき制作」に傍点]ですらある。しかもそれが常に現下の事実感を――いろんな意味で――盛っている以上、将来のルポルタージュのリアリズムを約束するに充分であろう。



底本:「増補 美学的空間」叢書名著の復興14、新泉社
   1977(昭和52)年11月16日増補第1刷発行
底本の親本:「美学的空間」弘文堂
   1959(昭和34)年11月
初出:「大阪朝日新聞」
   1932(昭和7)年1月19日〜22日
入力:鈴木厚司
校正:染川隆俊
2009年4月18日作成
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