「見ること」の意味
中井正一
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)現《うつつ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)うつす[#「うつす」に傍点]
−−
見るということは、光の物理作用と、眼の知覚作用の総合作用だと誰でも考えているし、またそれにちがいはない。素朴的にいわば客観を主観にうつしとる作用だという考えかたである。しかし、このうつすということも、考えだせばかぎりもない複雑なことを含んでいるのである。「うつす」という言葉には大体、映す、移す、といったように、一つの場所にあるものを、ほかの場所に移動しまたは射影して、しかも両者が等値的な関連をもっていることを指すのである。
等値的関連をもっている意味では連続的であるが、二つの場所にそれが離れる意味では非連続的である。うつすということの底にはすでに、この連続と非連続の問題も深く横たわっているのである。したがって、見ることも、本質的に考えると、うつすことの行為の意味で、この間題の上に成立しているのである。
見るということも何でもないようだが、理屈をつけてみれば、とんでもないむつかしいこととなってくるのである。
「みる」という言葉の意味の中には、さらにこの肉体的な射影行動の意味ばかりでなく、やってみるといったように、験すとか、何か不思議に面しているような、好奇的なこころもちも含まれている。この気分の中には、移るもの自体は、すでに行為的な流動的な時間的な、未来にのしかかっていく移動もふくまれていて、うつすとかうつるとかに関連して、みるという気持が、行為的な速度を経験している。「見えている世界が神秘だ」というゴーチェーの言葉は、そんな意味で、現《うつつ》というものがよくあらわれているリアルな表現である。一瞬一瞬、自分がいつのまにかほかの自分になっている。この音もない移動、この移動を単なる運動とするのではなくして、「同一の自分」と「移る自分」とをつなぐ神秘な重々無尽の鏡の間として、見ることが意味をもってくるのである。
しかし神秘なものとするには、それはあまりにも日常の行動である。毎日やってみているのである。試みているのである。リアルな表現で荒っぽく取り扱えば、そのことは「否定を媒介としてみずからを対象化する」ことなのである。まじまじと驚きをもって現実に関することであ
次へ
全4ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中井 正一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング