入込むすべての貨物は下落するであろう。彼れの貨幣所得が増加されると同じ時に所得の支出に対してなされるこの貯蓄全額は、かくて彼に二重に有利となり、そして彼をして、啻に彼れの享楽品を増加せしめるのみならず、附加的租税――もしそれが要求されるならば――を負担し得せしめるであろう。同一の考察は農業者及びあらゆる種類の商人にも当てはまる。
しかし、資本家の所得は増加しないであろうし、地主の地代から控除された一百万は労働への附加的労賃として支払われるであろう! と云われるかもしれない。そうであるとしよう。しかしこのことは議論に何らの相違も起さないであろう。すなわち社会の状態は改善され、そしてそれは以前よりもより[#「より」に傍点]容易に同一の貨幣負担を担い得るであろう。それは単に、社会における他の階級、すなわち遥かに最も重要な階級、の境遇こそが、この新しい分配によって主として利益を受けるところのものである、という更により[#「より」に傍点]望ましいことを、証明するに過ぎないであろう。彼が九百万以上に受取るすべてのものは国の純所得の一部をなし、そしてそれを支出すれば、必ずその収入、その幸福、または勢力が増加されるのである。しからば純所得を諸君の意のままに分配せよ。一つの階級にわずかばかりより[#「より」に傍点]多く、そして他の階級にわずかばかりより[#「より」に傍点]少く与えよ、しかもそれによって諸君は純所得を減少せしめることはないであろう。より[#「より」に傍点]多量の貨物が――かかる貨物の総貨幣価値額は減少するであろうけれども――依然同一の労働をもって生産されるであろう。しかし国の純貨幣所得、すなわち租税が支払われ享楽品が取得される資金は、現実の人口を維持し、それに享楽品や奢侈品を供給し、かつ一定額の課税を支持するに、以前よりも遥かにより[#「より」に傍点]適するであろう。
公債所有者が穀物の価値の著しい下落によって利得することは疑い得ない。しかしもし他の何人も損害を蒙らないならば、それは穀物が高価ならしめられるの理由とはならない、けだし公債所有者の利得は国民的利得であり、そしてすべての他の利得と同様に、国の真実の富と力とを増加せしめるからである。もし彼らが不当に利得するならば、そのしかる程度を正確に確かむべきであり、しかる後その救済策を考案するのは立法府の仕事である。しかし単に公債所有者が不当な割前を得るという理由だけで、低廉な穀物と豊富な生産物とから生ずる大きな利益を得まいとするほどに、愚かな政策はあり得ない。
穀物の貨幣価値によって公債の利子を調節しようという試みはなされたことがない。もし正義と信実とがかかる調節を要求するならば、古い公債所有者には多額の債務を負っていることになる。けだし彼らは一世紀以上同一の貨幣利子を受取り来っているのに、穀物は価格においておそらく二倍となりあるいは三倍となっているからである(註)。
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(註)マカロック氏は、見事な著書(『国債の利子を低減せる問題に関する一試論』――訳者註)において極めて力強く、国債に対する利子を下落せる穀物の価値に一致せしめるのが正当である、と主張している。彼は穀物の自由貿易に賛成しているが、しかし彼は、それは国家債権者に対する利子の減額を伴うべきである、と考えているのである。
[#ここで字下げ終わり]
しかし、公債所有者の境遇が、国の農業や製造業者やその他の資本家の境遇以上に、改善されると想像するのは、大きな誤謬である。それは実際上は改善を受けることより[#「より」に傍点]小であろう。
公債所有者は、疑いもなく、啻に粗生生産物と労働の価格が下落したばかりでなく、更に粗生生産物が一構成部分として入込んだ他の多くの物の価格を下落したのに、同一の貨幣利子を受取るであろう。しかしながら、このことは、私が今述べた如くに、同一の貨幣所得を支出すべき他のすべての者と共通に彼が享受する利益である。――すなわち彼れの貨幣所得は増加せず、農業者や製造業者やその他の労働雇傭者のそれは増加し、従って彼らは二重に利得するであろう。
労賃下落の結果たる利潤の騰貴によって資本家が利得すべきことが真実であるとしても、しかも彼らの所得はその貨物の貨幣価値の下落によって減少されよう、と云われるかもしれない。何がそれを下落せしめるはずであるか? 貨幣価値の変動ではない、けだし貨幣価値を変動せしめるものが何も起るとは仮定されていないから。その貨物を生産するのに必要な労働量の減少ではない。けだし、かかる原因は働かなかったし、またそれが実際働いたとしても、たとえそれは貨幣価格を下落せしめるかもしれぬとはいえ、貨幣利潤は下落せしめないであろうから。しかし貨物の原料となる粗生生産物は、価格において下落したと仮定されており、従って貨物はその故をもって下落するであろう。なるほどそれは下落するであろうが、しかしその下落は生産者の貨幣所得の減少を伴わないであろう。もし彼がその貨物をより[#「より」に傍点]少い貨幣に対して売るならば、それは、それを造る原料の一つが価値において下落したからに過ぎない。もし毛織物業者がその毛織物を、一、〇〇〇|磅《ポンド》ではなく九〇〇|磅《ポンド》で売るとしても、それを造る羊毛が価値において一〇〇|磅《ポンド》だけ下落するならば、彼れの所得は減少しはしないであろう。
マルサス氏は曰く、『なるほど進歩しつつある国の農業生産物に対する最後の附加は、大なる比例の地代を伴わず、そして、富める国が確実に一様の供給を得ることが出来る場合に、その国の穀物の一部を輸入するのがその国の利益になるのは、まさにこの事情の故である。しかし、もし外国穀物が国内において栽培され得る穀物より遥かにより[#「より」に傍点]低廉であり、ために外国穀物輸入のために無に帰する穀物の利潤及び地代に等しいほどである、というわけでないならば、すべての場合において、外国穀物の輸入は国民的利益とならないはずである。』――『諸基礎云々』、[#「』、」は底本では「、』」]三六頁。
この考察においてマルサス氏は全く正しい。しかし輸入された穀物は、常に、『外国穀物輸入のために無に帰する穀物の利潤及び地代に等しいほどに、』国内で栽培され得る穀物よりもより低廉でなければならない[#「より低廉でなければならない」に傍点]。しからざれば、その輸入によって何人に対するいかなる利益も取得され得ないであろう。
地代は高い穀価の結果であるから、地代の喪失は低い価格の結果である。外国穀物は、決して、地代を与える如き内国穀物と競争することはない。価格の下落はあまねく地代に影響を及ぼし、ついに彼れの地代の全部が吸収されるに至るであろう。――もしそれが更により[#「より」に傍点]以上下落するならば、その価格は資本の通常利潤すら与えなくなるであろう。資本はその時には土地を去って他の職業に向かい、そして、その時には、――その時まではそうではないが、――以前にそこで栽培されていた穀物は輸入されるであろう。地代の喪失によって、価値は、すなわち評価された貨幣価値は、失われるであろうが、しかし富は利得されるであろう。粗生生産物及びその他の生産物の合計額は増加し、その生産の便宜の増大によって、それは、分量は増加するが、価値は減少するであろう。
二名の人が等しい資本を、――一方は農業に他方は製造業に用いるとせよ。農業における資本は一、二〇〇|磅《ポンド》の年々の純価値を生産し、その中《うち》一、〇〇〇|磅《ポンド》は利潤として手許に保留され、二〇〇|磅《ポンド》は地代として支払われ、製造業における他方は単に一、〇〇〇|磅《ポンド》の年々の価値を生産するに過ぎないとする。輸入によって、一、二〇〇|磅《ポンド》を費した同一量の穀物が九五〇|磅《ポンド》を費した貨物と引換えに獲得され得、そしてその結果農業に用いられた資本が、一、〇〇〇|磅《ポンド》の価値を生産し得る製造業に転ぜられると仮定すれば、国の純収入はより[#「より」に傍点]小なる価値しか有たぬものとなり、それは二、二〇〇|磅《ポンド》から二、〇〇〇|磅《ポンド》に減少するであろうが、しかし啻にそれ自身の消費のための貨物及び穀物の量は同一であるのみならず、その製造品が外国に売られた価値と、そこから購買された穀物の価値との差額たる、五〇|磅《ポンド》が購買すべきだけの附加が、なされるであろう。
さてこれがまさに、穀物の輸入が利益であるかまたはこれを栽培するのが利益であるか、ということに関する問題である。一定の資本の充用によって外国から得られる分量が、同一の資本が吾々をして国内で栽培し得せしめる分量を超過する――啻に農業者の分前に関する分量のみならず、更に地代として地主に支払われる分量を超過する――までは、それは決して輸入され得ないであろう。
マルサス氏は曰く、『製造業に用いられている生産的労働のいかなる等量も、決して、農業におけるが如き大なる再生産を惹起すことは出来ない、と正当にもアダム・スミスによって論ぜられている』と。もしアダム・スミスが価値を論じているのであるならば、彼は正しい。しかしもし彼が、富を論じているのであるならば、――これが重要な点である、――彼は誤っている。けだし彼自身富をもって、人生の必要品、便利品及び享楽品より成る、と定義しているからである。一組の必要品及び便利品は、他の組との比較を許さない。使用価値は何らかの既知の標準によって測定され得ない。それは異る人によっては異って評価されるのである。
底本:「經濟學及び課税の諸原理」春秋社
1948(昭和23)年5月20日第1刷発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「敢て→あえて 恰かも→あたかも 貴方→あなた 普く→あまねく 予め→あらかじめ 非ざれば→あらざれば 非ずんば→あらずんば 凡ゆる→あらゆる 或る→ある 或は、或いは→あるいは 雖も→いえども 如何→いか 何れ→いずれ 一々→いちいち 何時→いつ 一層→いっそう 於いて・於て→おいて 於ける→おける 恐らく→おそらく 却って→かえって 拘わらず→かかわらず 斯く→かく 且つ→かつ 嘗て・曾て→かつて 可成、可成り、可なり→かなり かも知れ→かもしれ 位→くらい 蓋し→けだし 子沢山→子だくさん 毎→ごと 此の→この 之→これ 左程→さほど 然し→しかし 而も→しかも 然ら→しから 然り→しかり 然る→しかる 屡々→しばしば 暫く→しばらく 即ち→すなわち 総べて・総て→すべて 精々→せいぜい 其処→そこ 其の、其→その 度い→たい 唯→ただ 但し→ただし 度→たび 多分→たぶん 偶々→たまたま 為・為め→ため 丁度→ちょうど 一寸→ちょっと 就いて→ついて 遂に→ついに 就き→つき (て)置→(て)お (て)居→(て)お (て)貰→(て)もら 如何→どう 何処→どこ 兎に角・とに角→とにかく 乃至→ないし 乍ら→ながら 何故→なぜ 成程・成る程→なるほど 許り→ばかり 筈→はず 甚だ→はなはだ 延いては→ひいては 一と度→ひとたび 程→ほど 殆んど・殆ど→ほとんど 正に→まさに 先ず→まず 益々→ますます 又、亦→また 迄→まで 儘→まま 間もなく→まもなく 寧ろ→むしろ 若し→もし 勿論→もちろん 以て・以って→もって 専ら→もっぱら 最早→もはや 易い→やすい 矢張り→やはり 稍々→やや 所以→ゆえん 等→ら 訳→わけ 僅か→わずか」
また、底本では格助詞の「へ」が「え」に、連濁の「づ」が「ず」になっていますが、それぞれあらためました。
※読みにくい漢字には適宜、底本にはないルビを付しました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(荒木恵一)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2005
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