その反対も真である。この分割は地主のいかなる干渉もなしに、農業者とその労働者によって定められるであろう。そして実にそれはある分割が他のものよりも、新しい蓄積と土地に対するより[#「より」に傍点]以上の需要とに対して、より[#「より」に傍点]好都合であるという場合を除けば、地主が利害関係を有ち得ぬ事柄である。もしも労賃が下落するならば、利潤は騰貴するであろうが地代は騰貴しない。もし労賃が騰貴するならば、利潤は下落するであろうが、地代は下落しない。地代と労賃との騰貴及び利潤の下落は、一般に、同一の原因の――すなわち、食物に対する増加しつつある需要、それを生産するに必要とされる労働量の増加、およびその結果たるその高い価格の――不可避的な結果である。たとえ地主がその全地代を抛棄しても、労働者は毫も利得しないであろう。たとえ労働者がその全労賃を抛棄し得ても、地主はかかる事情から何らの利益をも得ないであろう。しかし双方の場合において、農業者は、両者が抛棄するすべてを受取りかつ保持するであろう。労働の下落は利潤を引上げる以外の何らの他の影響をも及ぼさない、ということを本書において説明するのが、私の努力であった。利潤のあらゆる騰貴は、資本の蓄積とより[#「より」に傍点]以上の増加に好都合であり、従っておそらくはたぶん、結局地代の増加に導くであろう。
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(註)一一二、一一三頁。[#第六章第九段落目以降のこと]
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(一四八)地代騰貴のもう一つの原因は、マルサス氏によれば、『一定の収穫量を生産するに必要な労働者の数を減少する如き農業上の改良または努力の増加』である。この章句に対しては、土地の肥沃度の増加が地代の直接騰貴の原因であると論じている章句に対して、私が抱いたと同一の反対論を、私は抱いている。農業における改良も優れた肥沃度も、土地に、ある将来の時期により[#「より」に傍点]高い地代を生出す能力を与えるであろうが、それはけだし、食物の価格は同一であり、しかも大なる附加的分量があるからである。しかし人口の増加が同じ比例になるまでは、附加的食物量は必要とされず、従って地代は下落するが騰貴はしないであろう。その時に存在する事情の下においては消費され得べき分量は、より[#「より」に傍点]少数の労働者によってかまたはより[#「より」に傍点]少量の土地によって、供給され得ることとなり、粗生生産物の価格は下落し、そして資本は土地から引去られるであろう(註一)。より[#「より」に傍点]劣等な質の新しい土地に対する需要、または既耕地の相対的肥沃度に変動を惹起す如きある原因を除けば、いかなるものも地代を騰貴せしめ得ない(註二)。農業及び分業における改良はすべての土地に共通である。それはその各々から得られる粗生生産物の絶対量を増加するが、しかしおそらくは、以前にそれらの間に存在していた相対的比例を多くは紊《みだ》しはしないであろう。
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(註一)七三、七四頁を参照。[#第二章後ろから数えて三段落目のこと]
(註二)一定量の附加的資本が、何らの地代も支払われない新しい土地に用いられようと、または既に耕作されている土地に用いられようと、もし両者から取られる生産物が分量において正確に同一であるならば、粗生生産物の価格及び地代の騰貴に関する限りにおいては、同一の結果が随伴するであろう、ということは、あらゆる場合に述べる必要はないが、常に理解されていなければならぬ。五七頁を参照。[#第二章(二五)の最後の段落のこと]
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セイ氏は、本書の仏訳に対する彼れの註において、いかなる時においても地代を支払わない耕地は存在しないということを証明しようと努め、そしてこの点について確信を得た後に、彼は、かかる学説から結果するすべての結果を覆したと結論している。例えば彼は、私が穀物その他の粗生生産物に対する租税はその価格を騰貴せしめることによって消費者の負担する所となり地代の負担する所とはならないと云ったのは正しくない、と推論している。彼は、かかる租税は地代の負担する所とならなければならない、と主張している。しかしセイ氏は、この推論の正確なることを証する前に、また、何らの地代も支払われない土地に用いられる資本はないということを、証明しなければならない(この註の最初及び本書の五二――五三頁と五四頁とを参照[#第二章(二四)のこと])。しかるにこのことを彼はなそうとはしていない。彼れの註のいかなる部分においても彼はこの重要なる学説を反駁しておらず、留意さえしていない。仏訳。第二巻、一八二頁に対する彼れの註によれば、彼はこの学説が述べられていることさえ知っているとは思われない。
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(一四九)マルサス氏は、穀物は特殊の性質を有っており、ためにその生産は、すべての他の貨物の生産が奨励されると同一の手段によっては奨励され得ない、というスミス博士の議論の誤謬を、正当に評論した。彼は曰く、『多年の間を平均して、穀価が労働の価格に及ぼす力強い影響を、決して否定せんとするものではない。しかし、この影響が土地へのまたは土地からの資本の移動を妨げるが如きものではない――これこそが問題の点である、――ということは、労働が支払われかつ市場に齎される仕方を簡単に研究し、またアダム・スミスの命題を仮定すれば不可避的にそうならざるを得ぬ結論を考えれば、十分に明かならしめられるであろう。』(註)
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(註)『穀物条例に関する諸観察』四頁
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次いでマルサス氏は、進んで、需要と価格騰貴とは、ある他の貨物の需要と価格騰貴とがその生産を奨励すると同様に有効に、粗生原料品の生産を奨励するということを、説明している。私がこの見解に完全に同意するものなることは、奨励金の結果について私が前述せる所からして分るであろう。私はマルサス氏の『穀物条例に関する諸観察』と、『一意見の諸基礎』云々と題されている彼れの他のパムフレットで、いかに違った意味で真実価格なる言葉が用いられているかを示さんがために、前者からの章句を注意した。この章句においてマルサス氏は、『穀物の生産を奨励し得る所のものは、明かに真実価格の増加のみである』と吾々に告げているが、彼は明かに真実価格なる語によって、他のすべての物に相対するその価格の増加を、または換言すれば、その自然価格またはその生産費以上に出ずるその市場価格の騰貴を、意味しているのである。もしも真実価格なる語がかかることを意味するとするならば、私はそれをかくの如く名づけるのは適当であるとは思わないけれども、マルサス氏の意見は疑いもなく正しい。それのみが穀物の生産を奨励する所のものは、その市場価格の騰貴である。けだし、一貨物の生産の増加に対する唯一の大きな奨励は、その市場価値がその自然価値または必要価値を超過するということである、ということは、斉《ひと》しく真実な原理とされ得ようからである。
しかし、これは、マルサス氏が他の場合に、真実価格なる語に附している意味ではない。地代に関する試論においてマルサス氏は曰く、『増加しつつある穀物の真実価格なる語を、私は、国民的生産物に対してなされた最後の附加分を生産するに用いられた所の[#「用いられた所の」に傍点]労働及び資本の真実の分量[#「分量」に傍点]の意に用いる。』他の部分において、彼は曰く、『穀物の高い比較的真実価格の原因は、それを生産するに用い[#「用い」に傍点]られなければならない所の資本及び労働のより[#「より」に傍点]大なる分量[#「分量」に傍点]である。』(註)前章句において、吾々がこういう真実価格の定義と取換えると仮定すれば、それはこういう風にはならないであろうか?――すなわち『それのみが穀物の生産を奨励し得る所のものは、明かに、それを生産するに用いられなければならない労働及び資本の分量の増加である。』これは、穀物の生産を奨励する所のものは、明かに、その自然価格または必然価格の騰貴である。――これは維持し難い命題である。生産される分量に対し何らかの影響を及ぼすものは、穀物が生産され得る価格ではなく、それが売却され得る価格である。資本が土地に引寄せられまたは土地から追出されるのは、生産費以上にまたは以下に出ずるその価格の差額の程度に比例している。もしこの超過が農業資本に、資本の一般利潤以上のものを与える如きものであるならば、資本は土地に赴くであろう。もしそれ以下ならば、それは土地から引去られるであろう。
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(註)本書が印刷に付されようとしている時、マルサス氏にこの章句を示した所が、彼は、これらの二つの場合に、彼はうっかりして、生産費の代りに真実価格という語を用いたのである、と述べた。私が既に述べた所からして、これら二つの場合に彼は真実価格なる語をその真実かつ正当な意味に用いたのであり、そして前の場合にのみそれが誤って用いられている、と私には思われることが、分るであろう。
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かくて穀物の生産が奨励されるのは、その真実価格の変動によってではなくして、その市場価格における変動によってである。『より[#「より」に傍点]多くの資本と労働とが土地に引寄せられるのは、それを生産するにより[#「より」に傍点]多量の資本と労働とが用いられねばならないから(これはマルサス氏の正しい真実価格の定義である)』ではなくして、『市場価格がこのその真実価格以上に騰貴し、そして経費の増加にもかかわらず、土地の耕作をしてより[#「より」に傍点]有利な資本用途たらしめるからである。』
(一五〇)アダム・スミスの価値の標準に対する、マルサス氏の次の考察は最も正しい。『アダム・スミスは、明かに、労働をもって価値の標準尺度[#「労働をもって価値の標準尺度」に傍点]とし、そして穀物をもって労働の尺度とする彼れの習慣よりして、この論脈に引入れられた。しかし、穀物が労働の極めて不正確な尺度であることは吾々自身の国の歴史が十分に証明するであろう。我国においては、労働は、穀物に比較して、啻に毎年ばかりでなく、更に毎世紀に、そして一〇年、二〇年、また三〇年間に亘って、極めて大なるかつ驚くべき変動を経験し来ったことが、見出されるであろう。そして労働もある他の貨物も[#「そして労働もある他の貨物も」に傍点]、真実交換価値の正確な尺度となることは出来ないということ[#「真実交換価値の正確な尺度となることは出来ないということ」に傍点]は、今では経済学の最も争い得ない学説の一つであると考えられており、そして実際に、交換価値のまさにこの定義に随伴し来るものである。』
もし穀物も労働も真実交換価値の正確な尺度でないとするならば、――両者は明かに、そうではないが、――他のどの貨物がそうであるか? ――確かに何もない。かくしてもし貨物の真実価格という表現が何らかの意味を有つとするならば、それは、マルサス氏が地代に関する試論において述べている意味でなければならない、――すなわちそれは、貨物を生産するに必要な資本及び労働の比例的分量によって測定されなければならぬのである。
マルサス氏の『地代の性質に関する研究』において、彼は曰く、『一国の通貨の不規則なことや、その他の一時的な偶発的な諸事情を別にすれば、穀物の高い比較的貨幣価格の原因は、その高い比較的真実価格[#「その高い比較的真実価格」に傍点]、またはそれを生産するに用いられねばならぬ資本及び労働のより大なる分量である[#「またはそれを生産するに用いられねばならぬ資本及び労働のより大なる分量である」に傍点]。』(註)。
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(註)四〇頁。[#第一章第五節(二〇)のこと]
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これは思うに、穀物であろうとまたはその他の何らかの貨物であろうと、その価格のすべて
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