ェどうしても吾々の満足に貢献し得ないならば、――いかにそれが稀少であろうとも、またどれだけの労働の分量がそれを獲得するに必要であろうとも、それは交換価値を欠くであろう。
(三)効用を有つならば、諸貨物は、次の二つの源泉からその交換価値を得る、すなわちその稀少性からと、それを獲得するに必要な労働の分量からとである。
(四)その価値がその稀少性のみによって決定される若干の貨物がある。いかなる労働もかかる財貨の分量を増加することを得ず、従ってその価値は供給の増加によって低下せしめられ得ない。珍しいある彫像や絵画、稀少な書籍や貨幣、極めて狭い範囲の、特別な土壌で栽培される葡萄からのみ造られ得るに過ぎない、特殊な性質を有つ葡萄酒の如きは、すべてこの種のものである。それらのものの価値は、それを生産するに最初必要とした労働の分量とは全く無関係であり、そしてそれを所有せんと欲する者の富と嗜好との変化するにつれて変化するのである。
 しかしながらこれらの貨物は、市場において日々交換される貨物の総量の中、極めて小なる部分をなすにすぎない。欲望の対象物たる財貨の遥かに最大の部分は、労働によって得られるのであり、そして、もし吾々が、それを獲得するに必要な労働を投ずる気になりさえするならば、啻《ただ》に一国においてのみならず更にまた多くの国において、ほとんど限りなく増加せられ得よう。
(五)しからば、貨物について、その交換価値について、かつその相対価格を左右する所の法則について、語る際には、吾々は常に、人間の勤労の発揮によって分量を増加することが出来、かつその生産には競争が制限なく働く如き貨物のみを意味するのである。
(六)社会の初期においては、これらの貨物の交換価値、すなわち一貨物のどれだけが他の貨物と交換せられるであろうかを決定する規則は、ほとんど全く、各貨物に費された比較的労働量に依存するのである。
 アダム・スミスは曰く、『あらゆる物の真実価格、すなわちあらゆる物がそれを獲得せんと欲する者に真に値するのは、それを獲得するの骨折と煩苦とである。あらゆる物が、それを獲得し、かつそれを処分せんと、すなわちそれを他の何物かと交換せんと欲している者に、真に値する所は、それが彼自身をしてこれから免れしめることが出来、かつこれを他人に課することが出来る所の、骨折と煩苦とである。』(訳者註)『労働は、すべてのものに対して支払われた所の、最初の価格――本来的の購買貨幣であった。』(訳者註)また曰く、『資本の蓄積及び土地の占有の両者に先だつ所の、社会初期の未開状態においては、種々なる物を獲得するに必要な労働の分量の比例が、それらを相互に交換するための何らかの規則を与えることの出来る唯一の事情であるように思われる。例えば、もし狩猟民族の間で通例一匹の海狸を殺すには、一匹の鹿を殺す労働の二倍を要するとすれば、一匹の海狸は当然に二匹の鹿と交換せらるべきであり、換言すれば、二匹に等しい価がある。通例二日の、または二時間の労働の生産物たるものは、通例一日の、または一時間の労働の生産物たるものの二倍に価する、というのは当然である。』(註)
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(訳者註)『諸国民の富』キャナン版、第一巻、三二頁。
(註)第一篇、第五章(これは誤りである。正しくは第六章。この句は、キャナン版、同上、四九頁――訳者註)。
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 人間の勤労によって増加し得ないものを除けば、これが真にすべての物の交換価値の基礎であるということは、経済学における最も重要な一学説である、けだし、価値なる語に附せられた曖昧な観念から生ずるほどの、かくも多くの誤謬と、かくも多くの所見の相違が起る源泉は、他にないからである。
 もし、貨物に実現された労働の分量が、その交換価値を左右するとするならば、労働の分量のあらゆる増加は、それに労働が加えられる貨物の価値を増加せしめなければならず、またそのあらゆる減少はそれを下落せしめなければならない。
(七)かくも正確に交換価値の源泉を定義し、そして論理を一貫させるためには、すべての物はその生産に投ぜられた労働の多いか少いかに比例してその価値が多くなるか少くなると主張すべきであったアダム・スミスは、彼自身もう一つの価値の標準尺度を立て、そして物は、この標準尺度の多くまたは少くと交換されるに比例して、価値が多くまたは少いと言っている。時に彼は標準尺度として穀物を挙げ、また他の時には労働を挙げている。そしてここに労働というのは、ある物の生産に投ぜられた労働の分量ではなくて、市場においてそれが支配し得る労働の分量なのである。すなわちこれらは同一事の異る二つの表現であるかの如くに、そして、人の労働の能率が二倍になり、従って一貨物の二倍の分量を生産し得るの故をもって、必然的にそれと交換して以前の分量の二倍を受取るであろう、というように言っている。
 もしこれが実際真実であり、すなわちもし労働者の報酬が常に彼の生産した所に比例するならば、一貨物に投ぜられた労働の分量と、その貨物が購買する労働の分量とは等しく、そしてそのいずれも他の物の変動を正確に測るであろう、しかしこの両者は等しくない、前者は多くの事情の下において、他の物の変動を正確に示す不変の尺度であるが、後者はそれと比較される貨物と同じく多くの変動を被るものである。アダム・スミスは最も巧妙に、他の物の価値の変動を決定するためには、金や銀の如き可変的媒介物が不十分なことを、示した後に、彼自身穀物または労働に定めることによって、それらにも劣らず可変的な媒介物を選んだのである。
(八)金や銀は、疑いもなく、新しいかつより[#「より」に傍点]豊富な鉱山の発見によって変動を被る。しかし、かかる発見は稀であり、かつその結果は、有力ではあるが、比較的短い期間に限られている。それもまた、鉱山採掘の熟練及び機械の進歩からも変動を被るが、それはけだしかかる進歩の結果、同一労働でより[#「より」に傍点]多くの分量が得られるであろうからである。それはまた更にそれが長年の間世界に供給をなした後に、鉱山の生産額が減少しつつあるということからも変動を被る。しかしこれらの変動の諸原因中のいずれから穀物は免れているであろうか? 一方において、それは農業の進歩により、耕作に使用される機械器具の進歩により、並びに、他国において耕作せらるべく、かつ輸入の自由なすべての市場における穀物の価値に影響を及ぼすべき所の肥沃な新地の発見によって、変動しないであろうか? 他方において、それは輸入禁止により、人口と富との増加により、及び劣等地の耕作が必要とする労働量増加によっての供給増加の困難の増大によって、価値の騰貴を被らないであろうか?
(九)労働の価値も等しく可変的ではないか、啻に他のすべての物と同じく、社会の状態のあらゆる変化につれて必ず変動する所の、需要と供給との間の比例によって影響を受けるばかりでなく、更にまた労働の労賃がそれに費される所の、食物その他の必要品の価格の変動によって、影響を受けて?
 同一国において、ある時に、食物及び必要品の一定量を生産するために、他の離れた時に必要なそれの二倍の労働量が必要とされるかもしれない、しかも労働者の報酬は、おそらくほとんど減少しないであろう。もし以前の労働の労賃が食物及び必要品の一定量であるとすれば、彼はおそらくその分量が減少されたならば、生存し得なかったであろう。食物及び必要品はこの場合、その生産に必要な労働の分量[#「分量」に傍点]によって評価するならば、一〇〇%騰貴しているはずであるが、しかるにこれらの物と交換される労働の分量[#「分量」に傍点]によって測るならば、それはほとんど価値が増加していないはずである。
 同じことが二つ以上の国についても言い得よう。アメリカやポウランドにおいては、最後に耕作された土地において、一定数の人間の一年の労働は、英国において同じ事情の下に在る土地におけるよりも、遥かにより[#「より」に傍点]多くの穀物を生産するであろう。さて、すべての他の必要品が、それらの三国において同様に低廉であると想像するならば、労働者に報酬として与えられる穀物の分量は、各国において生産の難易に比例するであろうと結論するのは、大なる誤りではないであろうか?
 もし労働者の靴や衣服が、機械の進歩によって、今日その生産に必要な労働の四分の一で生産され得るに至るならば、それはおそらく七五%下落するであろう。しかし、労働者がそれによって、一着または一足の代りに永久に四着の上衣または四足の靴を消費し得るに至るであろう、ということは決して真実でないから、おそらく、彼の労働は近いうちに、競争の及び人口に対する刺戟の結果によって、その労賃の費される必要品の新価値に適合せしめられるであろう。もしかかる改良が労働者の消費するすべての物にまで及ぶならば、吾々は、それらの貨物の交換価値が、その製造においてかかる改良が行われなかったあらゆる他の貨物に比較して、極めて著しい低落を受けたにもかかわらず、またそれが極めて著しく減少した労働量の生産物であるにもかかわらず、おそらく数年ならずして労働者は、たとえ増加したとしてもわずかしか増加しなかった享楽品を所有しているに過ぎないことを、見出すであろう。
(一〇)しからばアダム・[#「・」は底本では欠落]スミスと共に、『労働は時により[#「より」に傍点]多くの、また時により[#「より」に傍点]少い財貨を、購買[#「購買」に傍点]し得るであろうから、変化するのは財貨の価値であり、財貨を購買する所の労働の価値ではない、』(訳者註)したがって『それのみがそれ自身の価値において決して変化しない[#「それのみがそれ自身の価値において決して変化しない」に傍点]ものである所の労働が、それによってすべての貨物の価値が、すべての時及び処において評価されかつ比較され得る所の、窮極のかつ真実の標準である。』(訳者註)と言うのは、正しくない、――しかし、アダム・スミスが前に言った如くに、『種々なる物を獲得するに必要な労働の分量の比例が、それらを相互に交換するための何らかの規則を与えることが出来る唯一の事情であるように思われる、』換言すれば、貨物の現在または過去の相対価値を決定するものは、労働が生産するであろう所の貨物の比較的分量であって、労働者にその労働と交換して与えられる貨物の比較的分量でないと言うのは、正しいのである。
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(訳者註)『諸国民の富』キャナン版、同上、三五頁。
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(一一)(編者註)もし現在及びあらゆる時においてそれを生産するために正確に同一の労働を必要とするある一貨物が見出され得るならば、その貨物は不変的価値を有つものであり、そして他の物の変動を測り得る標準として極めて有用であろう。かかる財貨については吾々は何ら知る所なく、従ってある価値標準を定めることは出来ない。しかしながら、吾々が貨物の相対価値の変動の諸原因を知り得るために、またそれらの原因が作用する如く思われる程度を算定し得るに至らんがために、価値標準の本質は何であるかを確かめるのは、正しい理論を得るために、極めて有用なことである。
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(編者註)第一版及び第二版にあったこの章句は、第三版から除かれた。ここではそれを旧に復しておく。
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(一二)二つの貨物が相対価値において変動する、そして吾々は、そのいずれに変動が実際起ったのであるか、を知りたいと思う。もし吾々がその一方の現在の価値を、靴、靴下、帽子、鉄、砂糖、その他すべての貨物と比較するならば、吾々は、それがすべてのこれらの物の正確に以前と同一の分量と交換されるであろうことを見出す。もし吾々がその他方を同一の諸貨物と比較するならば、吾々は、それがこれらのすべての財貨に対する関係において変動しているのを見出す、かくて吾々は、たぶんの蓋
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