土地において生産される同一貨物の一部分が、常にあるからである。
結論を下せば、貨物の真実の豊富と低廉によってすべての消費者階級に生ずる利益を高く評価せんとすることは、私はあえて人後に落ちるものではないけれども、私は、一貨物の価値を、それと交換される他の諸貨物の分量によって評価することには、セイ氏に同意することは出来ない。私は、極めて著名な学者、デステュト・ドゥ・トラアシイと同意見であるが、彼は曰く、『ある一物を測るということは、吾々が比較の標準として、単位として、採用する所の同一物の確定量と、それを比較することである。一つの長さ、一つの重さ、一つの価値を測るということ、すなわちそれを確かめるということは、これらのものが、メートル、グラム、フラン、一言もって云えば同一種類の単位を、幾倍含んでいるかを発見することである。』フランと測らるべき物とが、双方に共通なある他の尺度に還元され得ざる限り、フランは単にそれでフラン貨幣が造られている同一金属の一分量に対する尺度である他は、何物に対しても価値の尺度ではない。このことはなされ得ると私は思うが、けだしこれらは共に労働の結果であるからであり、従
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