ゥつ地主がかくの如くして利得する所は彼が社会全体を犠牲にして利得しているのであることを、考えていない。地代の再生産によって社会が絶対的に利得する所は何もない。一階級が他の階級を犠牲にして利得しているに過ぎない。自然は耕作過程において人間の勤労と協力する故に、農業は生産物を、従って地代を、生むという提議は、単なる空想である。地代が得られるのは、生産物からではなくて、その生産物が売られる価格からである。そしてこの価格が得られるのは、自然が生産において援助するからではなく、それが消費を生産に適合せしめる所の価格であるからである。』(編者註――ビウキャナン版『諸国民の富』第二巻、五五頁。)
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(二九)地代の騰貴は常に、増加しつつある国富の結果であり、その増加せる人口に対する食物供給の困難の結果である。それは富の徴候ではあるが、しかし決してその原因ではない。けだし富はしばしば、地代が静止的であるかまたは低下しつつある間にも、最も速かに増加するからである。地代は、自由に処分し得る土地の生産力が減退する際に、最も速かに増加する。富は、自由に処分し得る土地が最も肥沃であり、輸入が制限されること最も少く、かつ農業上の改良によって労働量の比較的増加なくして生産物が増加され得、従って地代の増進が遅々たる所の、国において、最も速かに増加するのである。
もし穀物の高き価格が、地代の結果であって原因でないとするならば、価格は地代の高低に従って比例的に影響され、そして地代は価格の一構成部分となるであろう。しかし、最大量の労働をもって生産された穀物が穀物の価格の支配者であり、そして地代は、毫もその価格の一構成部分として入り込まず、また入り込み得ないのである(註)。従ってアダム・スミスが、貨物の交換価値を左右した本来的規則、すなわち、それによって貨物が生産された比較的労働量が、土地の占有と地代の支払とによって、いやしくも変更され得る、と想像したのは、正確であり得ない。粗生原料品は大抵の貨物の構成に参加するが、しかし、その粗生原料品の価値は、穀物と同様に、最後に土地に使用されかつ地代を支払わない所の資本部分の生産性によって、左右され、従って地代は貨物の価格の一構成部分ではないのである。
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(註)この原理を明瞭に理解することは、私の信
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