盾驕Dこれは非公式ではあるが最も有意義の會議であつて,その爲に物理學は直接間接に大きな推進力を得て居る.
 尚 Bohr はベルギーの Solvay 會議の會長であつて,此處でも同樣に新しい問題が討議せられる.嘗て不確定性原理が論ぜられた時などは,Einstein と Bohr との間に深更に至る迄興味ある討論が行はれたといふことである.Einstein は前から今日の量子論に反對の意見をもち,先年 Podolsky,Rosen と共著で“量子論は物理學的實在を完全に記述し得るや”といふ論文を出して,否定的の囘答を與へて居る.Bohr はこれに反駁の論文 (60)[#「(60)」は上付き小文字] を發表したが,要するにこれは Einstein の誤解である.
 §11. 日本に於ける Bohr.
 Bohr 教授を我國に招聘することは長い間の宿題であつて,昭和10年にはこれが實現する段取となつて居たが,長男不慮の逝去によつて中止となつた.然し昭和12年春,三井,三菱,原田積善會,住友本社,逸見製作所,伊藤竹之助氏,森矗昶氏の援助により遂に招聘は實現せられ,夫人並に次男同伴米國を經て4月
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