ohr は Christiansen の後をついだ Knudsen の後任として大學物理學科の助教授(Docent)となつた.此講座では醫學部の學生に物理學初歩を教へるのであつたが,之はあまり有難い仕事ではなかつた.然し夫は1年丈で濟んだ.といふのは1914年には Manchester の Rutherford の所へ,物理の講師として呼ばれたからである.當時歐州大戰が勃發したが同年10月には英國に渡り,2年間 Manchester に滯在した.其間1915年には前記スペクトルと原子構造の研究の繼續結果を發表した (11)(13)[#「(11)(13)」は上付き小文字].
1916年には Copenhagen 大學に Bohr の爲に理論物理の講座が設けられ其教授に任ぜられた.そして此講座にはやはり前記の醫學部學生への講義が付き纏つて居たのであるが,1916年夏歸國するや代講者を置くことを許され,又1918年には別に此講義の講師が置かれることになつて,全く惡縁を切ることになつた.
Bohr は就任後直ちに,此講座に附屬する理論物理學研究所の建設を大學當局に提議した.其内容は圖書室,
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