盾驕Dこれは非公式ではあるが最も有意義の會議であつて,その爲に物理學は直接間接に大きな推進力を得て居る.
 尚 Bohr はベルギーの Solvay 會議の會長であつて,此處でも同樣に新しい問題が討議せられる.嘗て不確定性原理が論ぜられた時などは,Einstein と Bohr との間に深更に至る迄興味ある討論が行はれたといふことである.Einstein は前から今日の量子論に反對の意見をもち,先年 Podolsky,Rosen と共著で“量子論は物理學的實在を完全に記述し得るや”といふ論文を出して,否定的の囘答を與へて居る.Bohr はこれに反駁の論文 (60)[#「(60)」は上付き小文字] を發表したが,要するにこれは Einstein の誤解である.
 §11. 日本に於ける Bohr.
 Bohr 教授を我國に招聘することは長い間の宿題であつて,昭和10年にはこれが實現する段取となつて居たが,長男不慮の逝去によつて中止となつた.然し昭和12年春,三井,三菱,原田積善會,住友本社,逸見製作所,伊藤竹之助氏,森矗昶氏の援助により遂に招聘は實現せられ,夫人並に次男同伴米國を經て4月15日に來朝せられたのであつた.
 それから5月19日に長崎から上海に向けて出帆せられる迄,約1箇月餘の滯在の間に12囘の講演と4囘の討論とを行ひ,その上に10囘に近い餐會に出席して寸暇もない忙しい日を送られたのであつた.これ等の公會に於ける講演に挨拶に,Bohr 教授は其薀蓄と熱意とを以て聽衆に多大の感動を與へた.
 其説く所は古典量子論より始めて相補性に及び,原子核,宇宙線を始めとして生物學,心理學,哲學等に關する最も基本的な今日の問題に就いて,教授獨自の見解を吐露して廣く我學術の研究發展に刺戟を與へた.現に目下我國に行はれつつある物理學,生物學上の研究の中で,其端を當時教授との討論に發したもののあることは,此招聘が如何に我學界の進歩を促したかを示すものである.
 Bohr の講演に對する態度は極めて良心的であり,又常に細心の注意を拂つて居る.日本に於ける講演でも,會場に出る迄話の内容について心を碎いて居られるやうに見受けた.
 Bohr の講演は前以て數式や圖を黒板に一杯書いて置いて,その順序に話すのである.然し其講演は決して解り易いものではない.それは言葉の關係もあり又内容から
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