動機の存するもの固より之れなきに非ず。
 伯は一面に於て本党発展の路を開かむが為に総理を辞するを必要なりと唱へつゝ、一面に於ては総理を辞するも决して本党を去らずと断言せり。則ち其の辞職なるものは唯だ形式的退隠たるに止まり、伯の猶ほ間接にも直接にも本党との関係を絶つの意なきや無論なるべし。且つ伯が政治を生命と為し、総理を辞すとも决して政治的活動を中止せずと言明したるを見れば、伯の辞職を求むる理由は殆ど解すべからず。伯は本党に総理たるも総理たらざるも旧に仍りて政治的活動を継続せむとす。知らず本党総理として正々堂々政治的活動を継続するの何故に本党に利あらずとするか。此の点よりいへば伯は無意義の辞職を申出でて、徒らに党員の感情を惑乱せしめたるに似たるも、実は伯の心奥に感慨自ら禁ぜざるものあり、乃ち名を辞職に藉て一大警告を党員に与へむと欲したるに外ならじ。
 伯は党則改正党勢拡張に関する大会の討論を評して、本党の大活動と為し、口を極めて英気の勃々たるを激賞したりと雖も、今其の所謂る党則改正なるを見るに、従来の首領政治を廃せむが為に、之れに代ゆるに合議制度を以てしたるのみ、是れ総理大隈伯に対する信任欠乏の投票に非ずして何ぞや。伯は自ら謙遜して党勢の振はざる原因を伯の微力為すなきに帰すと雖も、本党の僅に存在するを得るは、唯だ大隈伯あるを以てなり。伯は本党に何の負ふ所なきも、本党は全く伯の理想に依て活けり。若し本党より伯の理想を抜き去らば、本党の実体は次第に腐敗して終に※[#「さんずい+斯」、第3水準1−87−16]滅するの時あらむ。又何ぞ党勢の盛衰を言ふの遑あらむや。然るに今や本党は、大隈伯の理想に叛逆するものを以て多数を占め、其の結果は直に党則改正の上に現はれて、首領政治の組織を破壊せむと企てたり。是れ本党自ら衰亡に進むの凖備のみ。伯豈今昔を俯仰して感慨に堪へむや。
 抑も大隈伯の理想は、国民の代表機関を完全に運用して、英国風の憲政を日本に扶植せむとするに在り。伯は曾て此の理想によりて改進党を組織し、進歩党を指導し、又現に憲政本党を率い来たれり。伯は固より単純なる批評家を以て自ら居らむとするものに非ざるべく、苟も其の懐抱する理想にして実現するを得るの成算あるに於ては、進むで政権に接近するも亦敢て避くる所に非ざるべし。然れども伯は政権に接近するの前に於て、先づ国民の輿望を要求せり。国民の輿望を要求するが為に、先づ主義によりて政党の性格を鮮明ならしめむと努めたり。初め西園寺内閣の成るや、伯は首相の人と為りに対して多少の同情を表したりしも、其の施設の漸く伯の信ずる所と違ふや、伯の批評的態度は一変して露骨なる攻撃者の位地に立つに至れり。何となれば伯は西園寺内閣を目して、全く官僚団の勢力に支配せられ、最早一政党を代表したる面目の以て中外に示すに足るものあらずと為したるがゆゑなり。伯は官僚政治を認めて、憲政の健全なる発達に害ありと信ずる人なり。故に偏へに政権に接近せむが為に、主義の消長を顧みずして官僚団と結托するは其の甚だ喜ばざる所なり。伯は斯くの如き行動を以て政党の性格を喪失すと為すなり。
 然れども本党の改革派なるものは、寧ろ大隈総理と其の見解を異にするものゝ如し。彼等は政友会が曲がりなりにも政権に接近したるを得意の境遇なりと思へり。西園寺内閣を以て恰も自党の内閣なるかの如くに吹聴し、意気揚々として国民に誇らむとする政友会を見て、彼等は殆ど本党の秋風索莫たる逆境に堪へざらむとするの状あり。彼等は政治上に於ける官僚団の勢力甚だ強大なるを知るに及で、政友会が之れと相結托したるの却つて利口なるを信ぜむとするに至れり。彼等の中には、大隈伯にして本党を退隠せば、啻に官僚団の一角と連絡し得るの門戸開通するのみならず、更に本党の運命を開拓すべき新首領の官僚団より出現せむことを夢想するものすらありといへり。本党にして大隈伯の理想に服従する限りは、其の境遇の順逆如何に拘らず、兎に角一個の性格ある政党として存在し得べきも、伯に棄てられたる本党は、其の烏合の群衆たるに於て大同倶楽部と又何の選む所あらむ。勿論本党が天下を取るの時機を待つは愚に近かしと雖も、是れ特に本党に於て然りと言ふに非ず。凡そ孰れの政党を問はず、其の能く上下の信任を得て内閣を組織せむことは当分望みなしと謂はざる可からず。故に若し本党の改革派にして、政党に関する根本の観念を抛棄せむとせば別問題なれども、真面目に政党の名に依りて天下を取らむとする如きは余り虫のよき沙汰なりといはまくのみ。敢て問ふ公等は天下を取るの資格ありや、其の自信ありや、将た其の信任ありや。且つ天下を取るのみが政党の能でもあるまじ、政権に接近するのみが党勢拡張の唯一手段にもあるまじ。真に党勢を拡張せむとせば、何ぞ其の本に反へらざる。本とは他なし、順逆に頓著せず、主義によりて進退する是れなり。其の本を脩めずして唯だ政権に接近せむことを求む。是れ本党の深患なり。大隈伯が総理を辞せむと欲するは、其の意実に此の深患に陥りて自ら悟らざる党人に警告を与へむとするのみ。
 是に由て之れを観れば、大隈伯の辞職は、本党の発展上必要なるものに非ず、要するに其の申出は唯だ本党の将来に対する一大警告たるに過ぎざるのみ。然れども政治の全局より案ずれば、余は寧ろ伯が断然本党を棄つるの挙に出でたるを歓迎す。蓋し伯は伯自ら声言したる如く、たとひ本党との関係を絶つも、活動の余地は到る処に之れあるなり。伯は単身にして偉大なる勢力を民間に有すること、猶ほ伊藤侯が丸腰にして能く威望を朝廷に有するが如し。伯は元来本党に依て重きを為し居るの政治家に非ざるなり。本党或は亡ぶるとも、伯は未だ遽に政治的死亡を遂ぐるの癈人に非るなり。一政党を指導訓練するは、必らずしも無用なりと謂ふべからずと雖も、国民を指導訓練するは、更に最も必要なりと謂はざる可からず。今の党人は、智識に於ても、品性に於ても、决して国民の高級分子に非ず。高級分子の政党に入らざる所以は、国民全体の政治思想に進境なきが為なり。而して国民の政治思想は、単に一般教育の力のみに依て之れを発達せしむべきに非ず、別に偉人の人格より発動する感化力に待つもの多し。伯にして若し狭隘なる一政党の範囲を脱して自由の地歩を占め、政府の元勲たる伊藤侯と相対し、国民の元勲として党派以外に活動の余地を求めば、伯の大なる人格は、必らず国民全体を指導するの明星たらむ。是れ伯の晩節を善くするの道なり。(四十年二月)

     大隈伯と故陸奥伯

 十二月十日及び二十四日に於て、余は無限の興味と大なる敬意とを以て二個の盛典を見たり。一は早稲田大学の学園に挙行せられたる大隈伯の銅像除幕式にして、一は外務省構内に挙行せられたる故陸奥伯の其れなり。大隈伯は現在の人にして、且つ若干の未来を有し、陸奥伯は過去の人にして、其の伝記は十年以前に終結せり。然れども偉人傑士は、千古尚ほ毀誉褒貶の定らざる半面を存すると共に、他の半面の妍醜は、寧ろ其の触接したる同時代の国民に審判せらるゝを適当とするの理由なきにあらず。余は此の理由に於て、両伯に関する少許の智識を語らむとす。
 大隈伯の公生涯に於て、其の歴史的価値の最も大なる部分二つあり。新らしき政治的日本を建設せむが為に政党を組織したることゝ、学問の独立を謀らむが為に、官学に対抗すべき私学を興したること是れなり。板垣伯は亦政党を組織したるによりて、明治時代の一代表的人物となりき。福沢翁は亦曾て私学を興したるによりて、不朽の紀念を文化事業に遺したりき。今ま大隈伯の能く一人にして板垣伯及び福沢翁の為したるものを兼済したるを見るものは、誰れか伯を近世の偉人と称するに反対するものあらむや。且つ夫れ板垣伯は、始めて自由党を組織するに方てや、其の名望勢力実に一時を曠うするの概ありしも、年所を経るに従つて漸く尾大不掉の状を示し、終に殆ど国民の記憶より遠ざかりて、杳然聞ゆるなきの末路に立てり。之れを大隈伯が、久しく政権と近接せざるに拘らず、常に夫の終始順境を来往する伊藤山県両公と盛名を※[#「にんべん+牟」、第3水準1−14−22]うし、既に政党の総理を辞任したる後すらも、尚ほ且つ生気溌溂たる政治家たるを失はざるに比すれば、其の差果して奈何と為すや。是れ現在の大事実なり。何人も之を抹殺すべからず、又之れを顛倒するを得べからず。更に他の一大事実を注視せよ、是れ一層明白にして且つ永続性を有するものなり。大隈伯の創立したる早稲田大学の驚くべき発達是れなり。其の明治十五年東京専門学校の名を以て起るや、当時福沢翁の慶応義塾は校齢方に二十五年を重ねて基礎漸く固く所謂る三田の学風を鼓吹して海内を風靡し、隠然として私学の泰斗官学の敵国たりき。而も東京専門学校は、経営二十星霜にして、明治三十五年早稲田大学と改称するの域に達し、其の実力及び位地は、啻に慶応義塾と相対峙して毫も遜色なきのみならず、漸次準備の熟するを待つて理、医、農、工等の学科を増設し、以て完全なる大学の性質を具備するに至らむことを期せり。六千有余名の卒業生を出だしたる過去の成績、日々八千有余名の学生を出入せしむる現在の収容力、創立二十五年の祝典を壮にする一万余名の提灯行列、是れ豈福沢翁をして独り其の美を教育界に擅まにせしめざる厳然たる大事実に非ずや。たとひ大隈伯に政治上の成功なしとするも唯だ此の早稲田大学の繁栄以て能く伯の徳を後代に伝ふに足るべし。是に於てか銅像建設も決して無意義に非ずと謂ふべし。
 若し夫れ陸奥宗光伯は、未だ天寿を全うせずして十年前に病死したる人なり。若し伯をして尚ほ今日に健在せしめば、必らずや其の伝記に一段の光彩を添ゆるの事功ありしを疑はず。然れども伯は少なくとも日本の外交史に新紀元を開きたる中興の外務大臣なりき。第一外交機関が殆ど全く藩閥の勢力圏を離れて独立の位地を占むるに至りたるは、伯の力与つて最も多きに居れり。外交を専門の技術とせる近世の傾向に順応して、訓練ある外交官を登庸するの方針を確立したるは伯なりき。貴族若くは耆宿の名誉職たりし公使の任務を有能者に引渡して、日本の外交機関を刷新するの計画は、主として伯の手を藉つて行はれたりき。今の林外務大臣を始め、小村寿太郎、加藤高明、高平小五郎、原敬等の諸氏を重用して、外交政略の効果を大ならしめたるものは伯に非ずや。元来伯の人と為りは、深く藩閥者流の信頼せざる所なりしに拘らず、独り伯の指導する外交機関に対しては復た一指を染むる能はずして、伯の自由手腕に任かさゞるを得ざりき。従つて外務省は殆ど十分に伯の感化を受けたりしに似たり。第二に伯は条約改正の成功者なり。日清戦争の執行者なり。伯が新条約案を英国に提出したるの時は、方に日清和戦の機関、髪を容れざるの危急に迫まるの際なりき。若し尋常外交家をして此の場合に処せしめば、或は一方の為に他方を犠牲に供したりしやも知るべからず。况んや是れと同時に第三者に対する外交関係漸く過敏ならむとしたるに於てをや。勿論当時伯が果して韓国問題を以て和戦を断ずるの腹案ありしや否やは疑問なれども、兎に角韓国問題と条約改正とは、伯に於て軽重し難き二大懸賞案たりしは言ふを待たず。而も伯は屡次白刄の下を潜ぐるが如き態度を以て、巧みに韓国問題の解決手段を進行すると共に、断然条約改正の談判を開始して遂に其の目的を達したりき。此の期間は伯の智力の最も発越したる絶頂にして、又実に外交劇の能事を尽くしたる一齣なりき。且つ伯が外交団に於ける英国の優勝位地を認識して、先づ之れと条約改正を商議したるは、単に条約改正の成功を早めたるに止らず、其の将来の帝国外交を支配する大方針は、亦既に此の時に於て定まれりと謂ふべし。則ち日露戦争前後二囘に締結せられたる日英同盟の如き、蓋し伯の政略より胎生したる産物たるに過ぎず。第三に伯は世界主義を外務省に輸入したりき。伯は以為らく、帝国をして国際会議の一員たらしめむとせば先づ形式実質共に欧洲文明と諧調する政略を執らざるべからずと。此の政略は往々非愛国的なりと認められて、保守派より最も激
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