井上伯は老来野心漸く消磨したりといへば、自ら進で閣員たらんとするの目的ありしとは信ずる能はずと雖も、伯は政友会の創立には熱心なる世話人たり、新内閣の出産には老練なる産婆役たりしを以て、更に新内閣の保姆として重要なる一椅子を占むる権利を有したりしは無論なり。而して伊藤侯も亦之れを以て、伯に望みたりしは、既に公然の秘密なり。単に新陳代謝の必要より論ずれば、老骨井上伯の如きは、むしろ新内閣の伍伴たらざるを喜ぶべしと為す。されど伯にして若し内閣の一員たりしとせむか、其の一種の潜勢力は多少内閣に威重を加へたりしやも知る可からず。伊東男に至ては、其の人品或は議す可きものありと雖も、其行政の才固より当世に得易からず。伊藤侯が彼れを新内閣に羅致せむとして慫慂頗る勉めたるは又当然といはんのみ。况んや彼れは伊藤侯と切て切れざる関係あるに於てをや。
 然るに伊東男は、最初より入閣を肯んぜず。井上伯は内閣組織の間際に於て突然失蹤したるは何ぞや。世間伝ふる所に依れば、伊東男は近頃漸く伊藤侯に親まずして反つて山県侯に接近しつつあり。是れ入閣の勧告を拒絶したる所以なりと。此の説恐らくは揣摩臆測にして真相を得たるもの
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