より我国に存在する元老の如きものなし。然れども我国に於ては、元老は実に一種の政治的勢力なり。政友会は伊藤侯を離れて必らず存立を危くすべく、憲政本党は大隈伯に依りて僅に其の形体を維持せり。世に新政党組織を伝ふるものありと雖ども孰れの元老かを奉じて之れを首領と為すに非ずむば、政党らしき政党は容易に生まれざるなり。されば総裁の行動に不平なるが為に政友会を退会したる諸氏の如きは、今や立場なき沙漠の亡者にして、殆ど其の身を寄するの地なからむとするにあらずや。彼等は孰れも個人として未だ元老に代るの資望を有せざれば、現存政党以外に新政党を造るの困難なるは論ずるまでもなく、たとひ之れを組織することありとするも之れが首領たるものは必らず元老の一人たるべし。而して伊藤侯以上の首領を現存元老中より得るの望みなきこと明白なりとせば、彼等は遂に再び政友会に復帰するか、然らずむば憲政本党に投ずるの外ある可からず。若し二者其の一を選まざれば、地方選挙区に籠城するか、若くは中央政界の批評家たるに過ぎざるべし。此の趨勢を考ふれば、政友会の分裂に依て誘発せらるべき政界の革新は、革新といふよりは寧ろ政界の退歩といはざる可からず。余は伊藤侯が憲政有終の美を為すの志を諒とし、其の政友会を模範政党と為さむとするの精神尚ほ存するものあるを信じ、其の会員の指導訓練に於て更に大に努力あらむことを望むや随つて切ならざるを得ず。(三十六年七月)
韓国皇帝と伊藤統監
一昨年三月伊藤侯が特別の使命を帯びて韓国に赴き、始めて伏魔殿の主人公たる皇帝に対面したる時、蜜の如き辞令に富みたる皇帝は、侯に望むに永く京城に淹留して啓沃の任に当らむことを以てし、且つ自ら金尺大綬章を賜はりて、侯を尊信するの意を表したりき。其の際侯は此の人格上の一問題たる皇帝を如何に観たるかを知る能はずと雖ども、兎に角応酬の結果は極めて良好にして、日韓両国の新関係も、大体に於て侯と皇帝との間に或る黙契の成れるを想はしめたりき。
昨年十一月侯が日韓協約締結の大命を啣みて再び韓国に使するや、皇帝は侯の奏陳を聞て頗る驚惑し、次ぐに悲痛の語を以てせり。曰く、韓国は曾て支那の正朔を奉じて其の属邦たることありしも、未だ外交権を之れに委任したることあらざりき。今卿の提示せる協約は、朕が祖宗五百年の社稷を全く滅亡せしむるものなりと。其の声惻々として人の腸を断つに足れり。侯亦豈多少の感動なきを得むや。况むや、参政韓圭咼は歔欷流涕の余殆ど喪心し、元老趙秉世は阿片を呑で自殺し、前参政閔泳煥は精神逆上して狂死したるを見るをや。然れども皇帝は侯の剴切周到なる説明によりて、協約締結の止む可からざるを了悟し、終に各大臣に命じ、韓国及び皇室の位地面目に利益ある修正を施すを条件として日本の大使と商議せしめたるに、侯は啻に其の修正案の全部を容れたるのみならず、更に皇帝の直接の希望に応じて新たに一条を加へたりき。第五条の日本政府は韓国皇室の安寧と尊厳を維持するを保証すといふもの是れなり。尋で侯は韓国統監に任ぜられ本年三月を以て京城に駐剳したれば、皇帝は待つに師父の礼を以てし、且つ各大臣に諭して、万機総て侯の指導に従はしめたり。是に由て之れを見れば、韓国の皇帝は実に無限の信任を侯に寄せたるものゝ如し。
斯くて日本は韓国の保護者となれり。伊藤侯は韓廷の指揮者となれり。統監府は半島政治の中心となれり。侯は何時なりとも皇帝に謁見し得るの特権を有し、又何時なりとも各大臣を統監府に召集して内閣会議を開くの威勢を有せり。侯は命に背くものあれば大臣と雖も、之れが免黜を奏請し得べく、場合に依りては内閣の更迭をも謀るを得べく、兵力をも使用するを得べし。然れども是れと同時に、侯は韓国上下の誤解を招くを恐れて、成る可く急激なる改革を避け、温和漸進の方針を執り、一面に於ては政府の現状を維持して政治的動揺の発生を防ぎ、一面に於ては恩威兼用の施設に依りて信義を八道に光被せしめんとせり。侯は日本の韓国を保護するは之れを亡ぼす所以に非ずして、却つて其の興国の要素を開発せしむる所以なるを韓民に教へむとせり。侯は文明式の行政と、平和の経世術とに依りて韓国の秩序を整調し、韓民の生活状態を一変し、以て韓国の歴史に新性格を賦与せんと企てたり、侯は領土拡張の主義を含める覇道を排斥して、誠心誠意に王道を以て李家の天下を綏むずるに外ならざるを皇帝に領会せしめむと努めたり。約言せば侯の為す所は韓国の上下をして日韓協約の意義を善意に解釈せしめ、疑はず、惑はず、恐れずして全く日本政府に信頼せしむるを計るに在り。
勿論韓国は事実に於て日本の殖民地なり。然れども侯は日本人をして韓国の利益を壟断せしむる如き何等の偏頗なる政略を行使せず総ての外国人に対して機会均等主義を適用せり。侯は寧ろ居留日本人
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