。世間の取沙汰にては、渡辺子自ら新内閣の大蔵大臣たらむことを予期したるに、松方伯は伊藤侯に向て子を大蔵大臣の器に非ずと為し、此の椅子は断じて子に与ふ可からずと説き、侯の意亦稍々之に動かされて井上伯を大蔵大臣たらしめむとするの傾向ありしを以て、子は憤々の情に堪へずして伊藤侯と絶交せむとしたるのみと。而も子が心機一転の喜劇を演じたる瞬間に於て、井上伯失蹤の一珍事起りしを見れば、渡辺子の心機一転は、安ぞ井上伯の入閣中止の結果ならざるを知らむや。されど此の際に於ける出来事は一切暗黒より暗黒に移りて方物す可からず。之れを批判するの必要もなく、又批判し得可くもあらずと雖も、独り渡辺子が心機一転問題を以て無用の人騒がせを為したるに拘らず、其の予期したる大蔵大臣の椅子を得たるはめでたし。されど政友会総務委員等は、渡辺子の心機一転問題に付て物々しく争ひ騒ぎ、終に報告書を発表して、子の罪過を数へ、子の行動を称して狂乱といひ、伊藤侯に向て其の処分を強請したるほどなるに、彼等は箇の狂人と内閣に并び立て怪むの色なきは、亦古今無類の一大奇観なりといふ可し。元来渡辺子は疳癖ありて、往々常軌を逸する行動あり。而も之れを托するに無意義なる禅家の装姿を以てするが故に、其の一挙手一投足は殆ど常識を以て料る可からざるものあり。政治家としては或は要領を得ずとの評を免れずと雖も、新内閣の大蔵大臣としては、子を外にして其の適任者を求む可からざれば、子を狂人視せる政友会総務委員等は、到底子の位置を動かすこと能はじ。
 末松謙澄男の内務大臣たるは、最適任といふ能はざれども、又大なる不可もあらず。彼れは内務に多少の経験と学識とを有し、且つ其の資性も比較上廉潔に近かきものあるを以てなり。特に彼れは伊藤侯の愛婿として殆ど侯と一身同体の個人的関係あるが故に、侯は自由に之れを指揮監督するを得可きは無論なり。則ち末松男を内務大臣たらしめたるは、是れ事実に於て、侯が自ら内務大臣を兼摂したるものと認めて可なり。政友会の一部人士は星亨氏を内務大臣たらしめむと欲して、熱心に運動したるに拘らず、侯が毫も是れに掛意せずして末松男を挙げたる良工の苦心亦想ふ可し。
 金子男は心窃に農商務大臣たらしむことを期せり。彼れの実業奨励策は、何人も甚だ感服せざるものなれども、兎に角一度は農商務大臣たりしこともあり。実業上に関しては、曲りなりにも組織的意見を有せる一個の人才たるを以て、新内閣中彼れの為めに最好の位置は確かに農商務大臣の椅子なりき。而も侯が彼れに与ふるに司法大臣の閑職を以てしたるは彼れが如何に侯の為めに軽視せられ居るかを見る可し。松田正久氏の文部大臣たるは世人の均しく意外に感ずる所なる可し。世人は寧ろ尾崎行雄氏か否らずむば西園寺侯を以て文部大臣に擬したりき。西園寺侯は健康未だ恢復せざるの故を以て、自ら新内閣に入るを好まざりしといふの事情はあれども、尾崎氏に至ては然らず。彼れは曾て文部大臣として頗る好評あり、其の人物技倆亦松田氏と同日に語る可らざれば、則ち西園寺侯にして自ら起たざるに於ては、尾崎氏こそ寧ろ新内閣の文部大臣として最好の人物なれ。知らず彼れは内閣大臣を目的として進歩党を脱したりといはるゝを気にして、自ら入閣を避けたる乎。将た彼れ自身は入閣を望みたるも、伊藤侯は彼れを閣員に加ふるを好まざりし乎。
 星亨氏を逓信大臣たらしめ、林有造氏を農商務大臣たらしめたるは、恰も膏肉を餓虎に与へたる如しとて、国民の頗る寒心する所なり。されど伊藤侯は政党に於ては首領専制を唱へ、内閣に於ては首相独裁を主義とするの政治家たり。侯にして果して能く其の主義を実行するの決心あらば、たとひ詐偽師を内閣大臣たらしむるも亦必らず之れをして其詐偽を行ふに由なからしむるを得む。况んや星林の両氏の如きは、共に材幹手腕ある一廉の人物にして、若し之れを善用すれば、相応の治績を挙げ得可き望みあるに於てをや。唯だ侯が之れを善用するを得るや否やは甚だ世人の危む所たるのみ。
 新内閣員として最も注目す可きは、加藤高明氏の外務大臣たること是なり。彼は久しく英国駐在の帝国公使として令名あり。其の外交上の技倆よりいへば、新内閣の外務大臣として何人も故障をいふものある可からず。彼れは啻に外務大臣として適任なるのみならず、内閣大臣たるの人格より見るも、新内閣中実に第一流の地歩を占むるものなり。彼れは名古屋出身たるに拘らず、毫も名古屋人の特色たる繊巧軽※[#「にんべん+鐶のつくり」、18−上−6]の処なく、極めて硬固にして冷静の頭脳を具へ、決断に長じ抵抗に強く、言笑亦甚だ不愛嬌なれども、常識豊富にして、其の思想は頗る健全なり。彼を知るものは彼れを称して英国紳士の典型を得たるものなりといへり。故に彼れの新内閣に在るは、確かに中外に対する重鎮たらむ。余は伊藤侯 
前へ 
次へ 
全88ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
鳥谷部 春汀 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング