尾崎行雄氏が十数年以来利害苦楽を共にせる政友に別れて、一人の知己を有せざる政友会に投じたる行動の如きは、一個未了の疑問として政界に存在せり。されど余を以て之れを観れば、彼れの行動は極めて単純なる目的に出でたるに外ならじ。有体にいへば、大隈伯よりも伊藤侯を以て自家の栄達を謀るに便宜なりと信じ、進歩党よりも政友会を以て多望の未来を有すと認めたればなり。固より其の観察と判断とは、種々の方面と複雑なる材料を基礎としたるを疑はずと雖も、其の出発点の功名心にして、其の帰着点の栄達に在る可きは、何人も疑ふものある可からず。其の進退条件が政見の異同に関せざるは、彼れが曾つて進歩党に対して何等の提言なかりしを以ても之れを知る可きのみならず、彼れが終始其の心事を秘密にして、一政友にすら真実を語りたることなしいふを聞ても、其の如何なる動機に依りて進退したりしかを察するに足る。
 凡功名心に富める政治家は、往々栄達の為に主義政見を一擲するの例少からず。英国現内閣の殖民大臣チヤムバーレーンは、初め急進党として、愛蘭自治論主張者として、チヤーレス、ヂルクの最親なる政友として、愛蘭党首領パーネルの熱心なる弁護者として議会に立てり。然るにグラツドストンの自治案一たび出るや、彼れは遽かに之れに反対して終に保守党と提携したり。其の表面の辞柄は大英国の統一を維持すといふに在れども、其の豹変の倏忽なるは、今尚ほ厳酷なる批評家の冷笑を免がるゝ能はず。頃日米国の雑誌『アウトルツク』に掲載せるヂヤスチン、マツカーシー氏のチヤムバーレーン論を読むに、其のチヤムバーレーンの自治案に反対したる当時の事情を説て頗る詳悉なり。其中にいへるあり、曰く愛蘭尚書ウイリアム、フオスターの辞職するや、其の後任としてチヤーレス、ヂルクを推薦する者あり、而もヂルクは内閣に座次を有せざれば、到底愛蘭に於ける自治政略を内閣に行はしむる能はずと称して之れを謝絶したり。此に於てかチヤムバーレーンを以て之れに擬するものあり、彼れ亦窃に其の位置を希望し、且つ之れを得むが為に、あらゆる手段を尽くしたり。彼れ以為らく、我れは当然愛蘭尚書に推薦せらる可し、我れ能く其の任務を全うするの準備ありと。而して彼れは愛蘭の国民党員《ナシヨナリスト》と或る協商を継続し、而して其の国民党員は、彼れにして若し愛蘭尚書たらば、必らず自治案主張者として行く可しと信ぜり。然るにチヤムバーレーンの予期したる愛蘭尚書の位地は彼に与へられずしてフレデリツク、オヴヱンデス卿に与へられたり。間もなくフレデリツク卿被害の報は倫動に来れり。余(マツカーシー)自身はパーネル氏と相伴ひて、ヂルク及チヤムバーレーンの二氏を訪問し以て愛蘭の善後策を談ぜり。当時チヤムバーレーンは尚愛蘭国民党に信任せられ、彼等はチヤムバーレーンを以て自治案に対する愛蘭人の要求に深厚なる同情を有するものなりと思へり。されど彼れは依然商務局長たるのみ、愛蘭尚書たるの機会は来らざりき。彼れが自治案に反対したるは此の以後に在りと。此に依りて是れを観れば、チヤムバーレーンが其の持説を一変したるは、自由党内閣が彼れに愛蘭尚書の位地を与へざりしもの其の主因たりしが如し。マツカーシー又曰く、初めグラツドストンの自治案に反対したる者は、自由党にも亦頗る多かりき。されど反対の焼点たりし条項はグラツドストンに依て修正せらるゝに至て、彼等は皆グラツドストンの指導の下に復帰したり。独りチヤムバーレーンは全く彼等と其の行動を異にしたりきと。余はマツカーシーの鋭利なる観察に依て、チヤムバーレーンの進退に関する真相を知ると共に、移して以て日本のチヤムバーレーンたる尾崎氏の行動を判断するの参考と為さむと欲す。故に特に其の大要を此に訳載したるのみ。

      (五)交渉の失敗
 政友会が各種の要素を収容せむとして、諸ろの方面に交渉したる画策は大抵失敗に終れり。最も与し易しと為したる貴族院研究会すら、宣言及綱領には賛成なれども研究会の会則は会員をして他の団体に加はるを禁ぜりとの口実に依りて入会を拒絶し、初めより伊藤侯の属望したる実業家の如きも、東京大阪に於ける高級分子は、亦皆入会を避けて其の薬籠中の物とならず。而して其来り投ずるものは、大抵政治を以て営利の目的を達せむとする政商か、若くは中流以下の地方実業家のみ。侯の失望亦以て察すべし。
 元来侯が実業家を収容せむとするの画策は、既に選挙法改正案提出の時に成り、而して其の改正案を成立せしむるが為めには、或は当局者として之れを議院に論じ、或は自ら貴族院の議席に就て之れを論じ、或は地方を遊説して其の所見を発表し、以て市の独立、市民の投票権拡張を主張したるは、蓋し亦実業家を味方として政界に立たむとするの後図に非るはなかりき。此の点に付て井上伯は深く侯の苦衷を諒とし、
前へ 次へ
全88ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
鳥谷部 春汀 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング