考へて見ればさうかも知れない。
 ▲君がジスレリーを気取て居るといふのは有名な話であるが、近頃は君をチヤムバーレーンに較べるものがあるやうだ。チヤムバーレーンはバーミンガムの市長と為つたこともあるから、此の点だけが似て居るやうだが、人格は全く反対で、少しも似て居る処がない。
 ▲チヤムバーレーンは理想家でなくて、実行家である。但し何んな政治家でも、苟も政治家であつてみれば、何かの理想を持つて居らぬものはないのである。チヤムバーレーンにも、赤いとか白いとかいふ理想あるに違ひない。しかし彼れは自己の理想よりも更に政治家に大切なものがあるといふことを心得て居る。即ち時代の精神である。彼れが時代の精神に触接するの鋭敏なることは、殆ど天才の詩人が無意識に自然と触接するやうな趣がある。初めは自治法案に賛成して居つたが、時代精神が漸く大英統一主義に傾いて来たのを察して、潮合を計つて自治法案反対と出掛けた処などは凄い腕だ。此頃は復た保護貿易主義らしいものを唱へて居るが、元来自由貿易策は英国の国是ともいふべき位のもので、自由党でも保守党でも此の政策には今が今まで指一本も差しかねたものであるが、彼れが大胆にも之れを変更しようと試みるのは、全く時代精神の傾向を見抜いて居るからだ。其の目先の早いことは疑ひもなき天才である。
 ▲尾崎君はさういふ柄ではない、一体は主観的理想家であるから、其の頭脳は一定の型に這入つたやうに固まつて居る。それであるから、君の政治論は、十年前も今日も、少しも変化もなければ進歩もないやうである。進歩党を去て政友会に赴いた時は、世間から変節だとか無節操だとかいはれたが、実は変節でも何んでもない。唯だ一寸乗替汽車に乗つて見たばかりで、其の行先はチヤンと極まつて居つたのである。
 ▲理想家に免がれない短所は、常に自己に重きを置きすぎる弊があつて、兎角時代の精神を看過するから、実行的手段には迂濶であるやうだ。此の社会を自己の理想通りにして見たいと思ふのは、面白いことは面白いが、社会は自己の理想より進歩して居ることもあり、後れて居ることもあつて、平行して居ることは少ないものだから、理想家は何うかすると社会の孤児となるのである。
 ▲尾崎君の行径を見るに、多少其の傾向があるではなからうか。政友会を脱したのも、自己の理想が行き詰つた為めであつて、別段深い考があつたものと見えない。世間には、君が伊藤侯を見損つて政友会に飛び込むだのが誤りであつたと評するものもあるが、強ち見損なつた訳ではなからう。唯だ自己の理想を余り大事にし過ぎた為に、当時の境遇に堪え得なかつたのである。
 ▲しかし茲が尾崎君の人気のある所以で、失敗しても世間の同情が君を離れないのであらう。チヤムバーレーンのやうな人物は、成功すれば世間から同情を受けるが、失敗でもしたら最後、名誉も信用も忽ち去つて仕舞うのが必然だ。其処になると、理想家は一得一失で、失敗しても左ほど世間から憎まれない。尾崎君は即ち其の一例で、君は自ら言つて居るやうに、屡々暗黒の隧道に行き当ることがあるが、暫らくして再び光明の出口に送り出さるゝのである。
 ▲政友会を脱したのは、丁度隧道に向つた処であつて、君自身も此先どうなることかと気が気でなかつたに相違ない。其処へ都合よく東京市長が欠けて居つて、後任問題の持ち上がつた際であつたから、人気は恐ろしい勢で君に集つた。これだけは君の夢にも思はなかつたのであらうが、君に取つて所謂る渡りに舟で、人気といへる不思議の魔力に引かれたのである。
 ▲凡そ聡明な人物は、自分で自分の運命を開拓するものであるが、余り聡明でない人物でも、人気といふ魔力に担がれると、予期せざる仕合せに逢ふものらしい。
 ▲ソンなことはどうでも宜いとして、さて君はチヤムバーレーンに比較されて居るから、どうかチヤムバーレーンに劣らないやうに、緊かり市政を行つてもらひたいものだ。市政といへば小さいやうであるが、なか/\さうでない。国務大臣の仕事にも劣らぬほどの難役であるのだ。
 ▲チヤムバーレーンがバーミンガムの市長と為つたのは未だ国会議員とならない前であつて、政治家としては経験が甚だ少なかつたのである。しかし会社事業や何かで実務上の手腕が十分認められて居つたから、市民の信用を得て市長に選まれたのである。果して彼れは市民の希望に背なかつた。新たに大規模の公園を造くる、自由図書館を建てる、市民の大会堂を設ける、水道及び瓦斯の供給を市有にする、貧民窟を市外に移して市の体裁を綺麗にする、それは/\目醒ましき働きを現はしたのである。随て彼れの市長たりし時代はバーミンガム市の歴史上、最も記憶すべき重要の時代といはれて居るが、尾崎君も市長となつた序に思ふ存分に手腕を示してもらひたいものである。
 ▲唯だ市政はヂミな仕事で
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