はず、一日も社交と隔離する能はず、一日も沈欝なる天地に俯仰する能はず。彼は山を楽むの仁者たるよりは水を楽むの智者たるを喜べり。彼は安心立命を求むるの達人たるよりは、一生奮闘を継続するの戦士たるを選べり。
 伊藤公爵を以て彼れに比すれば、其の人格に大なる相違ありと雖も、其の名誉心の頗る旺盛にして、常に身を公衆の眼前に置き、自己の存在の社会に意識せられむことを求むるの点に於ては則ち一なり。彼は大隈伯爵の如く放胆無双ならず、又大隈伯爵の如く非常に多方面ならず。彼れの世界は殆ど政治に限られたり。然れども彼は此の限られたる世界を成るべく華やかにして、働らき甲斐あらむことを期するが故に、自己の存在の社会に忘れらるゝは、最も彼れの恐るゝ所なり。彼は又大隈伯の如く単に社会の潮流に乗ずる巧妙なる舟子たるを以て甘むぜずして、潮流其物を指導せむとするの慨ありと雖も、要するに風潮以外に立つて独自一己の理想を保守する人にあらず。若し伊藤公爵と大隈伯爵とを対照せば、伊藤公爵は欧洲大陸の政治家たる面影あり、大隈伯爵は英国政治家の風ありと謂ふべくして孰れも欧洲式の政治家たり。転じて山県公爵を観れば、其生涯は夐然別種なり。彼は明治の歴史に於て最も重要なる部分を働らきたる一人なり。彼は自ら首相となりて内閣を組織したること前後二囘、其の内閣を組織せざる場合に於ても、屡々内閣の製造者たることありて、其の発言は往々内閣の更迭に影響を示したり。彼は所謂る元老団の要素として天皇陛下より特絶の待遇を受け、内外の重大なる国務は、一として彼れの与かり知らざるものなく、恐らくは最後の真理を最初に聞くべき位地に居るものは彼なるべし。蓋し日清戦争以来、軍事は政治機関の強部を占め、所謂る戦後経営なるものゝ如き、畢竟軍事を主として財政を従としたる立案たるに過ぎざるの観あり。之れに加ふるに日露大戦の経験を以てしたるに於て総ての政治問題は殆ど軍事万能主義に依て左右せらるゝの傾向を現はせり。則ち是の時に当りて、政府の枢機は軍事を心軸として囘旋するが故に、政治問題の秘鍵を握るものは亦軍事当局者なりと推定するも可なり。而して山県公爵は軍国の大首領として優越的威望を有するのみならず、軍事と政治の関係を研究するに於て又他の元老の何人にも勝れるは言ふを俟たず。斯くの如き威望と長所とを兼備せる山県公爵が最も早く政治問題の極意に通じ得べき地位に在るは当然なりと謂ふべし。但だ彼は当局者としても、局外者としても常に超然として公衆環視の圏外に特立せむとするの態度を執るものゝ如く、伊藤公爵大隈伯爵等が終始公衆の耳目を聳動せむとすると頗る其の趣を異にせり。されば伊藤公爵大隈伯爵等は、其の妍醜瑕瑜大概露見して蔽はるゝ所なきも、山県公爵の真価は容易に公衆の窺ひ知る所とならず。彼は輪廓明白なる一人格としてよりは、寧ろ人格化したる一勢力として国民の眼に映ぜり。従つて国民は彼れの存在を政権と聯結して観察するに止まり、真に能く彼れの人格を領解し得るものは甚だ少なきに似たり。
 且つ伊藤公爵も、大隈伯爵も、其の私生涯と公生涯とを問はず、均しく之れを公処の白堊光裡に展開して彼等の自由批評に任ずと雖も、山県公爵に至ては、公私の生涯に截然たる分界あるが故に、其の私生涯は醇粋なる私生涯にして殆ど公衆と何の交渉する所なし。彼は朝廷の大礼、若くは官務的性質を帯びたる会合以外に出席すること甚だ稀なり、単に社交を目的とする普通の公会に周旋して、八面酬接の交渉を事とするは、彼れの性向に適せざる所なるべし。時として椿山荘園遊会を見ることあるも、是れ大切なる外国の貴賓に敬意を表する場合か否らずむば一家の賀儀を機会として少数の親近者を招待する場合に行はるゝのみ。彼は政治家として国民の輿論に拘束せらるゝを避くるとともに、其の私生涯に於ても亦公衆の心理に煩はさるゝを免かれむと欲するものゝ如く、則ち其の庭内境静かにして風塵到らざる処に安置したる彼れの銅像は、無言の間に善く活ける主人公の理想を語る者に非ずして何ぞや。されば彼の私生涯は、豪華の以て世に誇るべき者なく、盛装の以て人を驚かすべきものなく、彼れの位地よりいへば、寧ろ極めて単純簡朴なりと評すべし。此の私生涯に含蓄せられたる趣味も、亦従つて公衆的ならずして個人的なり、一般的ならずして家族的なり。私生涯の彼は書院の人にして、彼は僅に漢詩を作り、和歌を詠ずるの閑趣味を解するのみ。囲碁を弄し謡曲を奏するの娯楽あるのみ。有体にいへば山県公爵は決して公衆の好愛する政治家に非ず。然れども世には一般公衆に好愛せられずして、却つて鞏固なる勢力を有する政治家あり。彼は一般公衆に対しては、一の快感を与ふべき態度を示さず。彼は自己の能事を尽くして、必らずしも其の公衆に知られむことを願はず。彼は浮泛なる群情に殉ずるを為さゞる代りに
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