閣を組織してより既に二会期の議会を通過し、兎も角も比較的長期の内閣の首相として今日まで無事なるを得たり、此の点よりいへば、閣下は藩閥元勲中最も幸運なる位地に立てりと謂ふ可し、夫れ賢者は名を惜み、哲人は身を保たむことを思ふ、閣下はたとひ政治家たるの技倆なきも、賢哲の用意を為すに於て未だ必らずしも晩れたりと謂ふ可からず、閣下何ぞ之れを熟計せざる※[#白ゴマ、1−3−29]且つ夫れ閣下は蒲柳の質、気力亦頗る衰へたり、曾てサーベル政略を以て党人に畏怖せしめたるもの今は党人を迎合して僅に一時の苟安を謀るに汲々たり、顧みて内外の形勢を観れば、国務益々多端にして、総て盤根錯節を断つの利器を待つものたらざるなし、閣下たとひ愛国の至情自ら禁ずる能はざるものあるも閣下の健康到底之れに堪へざるを奈何せんや、想ふに閣下亦必ず負荷の難きを知らざるに非らじ、之れを知つて尚ほ且つ自から断ずる能はざるは、唯だ属僚に対する関係より脱離するを得ざるが為めのみ、さりながら閣下にしても苟も此般の情実に拘束して自ら断ずる能はざれば、閣下は終に属僚に誤まられて末路必らず悲む可き運命あらむ、乃ち我輩は閣下の名誉の為めに、閣下の晩節を保つが為に、将た局面を展開して政界を一新せむが為めに茲に謹で閣下の辞職を勧告す、閣下果して我輩の言を納るれば、是れ独り閣下の利益のみならず、又国家の利益なり、閣下幸に之れを諒せよ。(三十年四月)

     山県公爵

 現代日本に於て最も秘密多き人物は、恐らくは山県公爵なるべし。彼れの性格、伎倆、及び政策は、伊藤公爵若くは大隈伯爵等の如く分明に表現せられざるが故に、国民は唯だ彼を政治界の一勢力として其の存在を認識する外、復た彼れの真価に就て何等の知る所なきものに似たり、例へば世人は彼を称して最も頑固なる保守主義の代表者と為すも、彼れの保守主義の如何なるものなるかを精確に領解するもの果して之れあるや。世人は又彼を目して政党内閣制に反対する政治家と為すも、誰れか果して彼れの口より公然たる非政党内閣論を聞きたるものありや。或は彼を陰険といひ、或は彼を圧制家といふも、其の批判は果して事実を根拠としたるものなりや。頗る疑はし。然れども彼れの真価の知られざる処は、是れ却つて彼れの真価の存する処にして、彼れが伊藤公爵大隈伯爵等と相対峙して、別種の勢力を有する所以亦此にあり。
     *  *  *  *  *  *  *
 大凡政治家に二様の模型あり。公衆と倶に語り、公衆と倶に喜憂し、常に門戸を開放して、勉めて公衆と接近し、以て自己の存在を社会に記憶せしむるを平生の用意と為すもの是れ一、大隈伯爵の如きは此の模型の政治家にして、伊藤公爵も亦稍々之れに近かし。第二は全く反対の模型にして、敢て漫りに公衆と親まず、必らずしも社会に自己を領解せしむるを求めずして、唯だ其の信ずる所を行ひ、其の為さむとする所を為し、名声よりも実功を重むじ、人の是非よりも事の結果を考へ、且つ言行謹慎にして、持重の念頗る強し。山県公爵の如きは則ち是れなり。前者は社会の感情中に生活し、後者は少数者の信任に身を托し、前者は公衆を対象として客観し、後者は自己及び自己の職分を本位として主観す。前者は共和国に在ても猶或は政治家たるを失はずと雖も、後者は独り君側輔弼の宰相として立つに非ずむば、政治家たるよりも、寧ろ軍人として成功せむ。山県公爵が常に一介の武弁と称し曾て政治家を以て自ら任ぜむとするの口吻を漏らしたることなきは、則ち彼れに自知の明あるが為に非るなきか。
 試に大隈伯爵を見よ、彼れの門前は日に各種各様の来客を以て市を成せり。政党員も往き、新聞記者も往き、実業家も往き、相場師も往き、紳士も往き、貴婦人も往き、学者も、書生も、浪人も争ひ往けり。而して一たび早稲田邸の玄関を辞したるものは、皆大隈伯爵の写声機となり、喇叭管となり、讚美者となりて、彼れを社会に吹聴し、紹介し、推奨して、彼れに対する記憶を深からしめざるなし。是れと同時に、彼は自ら進むで活溌なる社会的運動に関係し、或は好むで公私の会合に出席し、或は屡々大なる園遊会を開き、以て自己と公衆との連絡を謀るが故に、彼は既に政党総理を辞して直接に政治界と交渉せざるも、其の存在は依然として公衆瞻仰の標目たり。特に彼れの有する広大なる庭園は、殆ど一種の高等公園として公衆に公開せられたるものゝ如く、彼れの誇りとする園芸の如きも、彼に在ては閑人の道楽に非ずして多忙なる社会的運動の一方便たり。彼は其の庭園に瀟洒たる一茶室を有せり。而も余は未だ曾て彼れが宗匠を呼びて茶会を催したるの風流ありしを聞かず。閑寂を旨とする茶会の如きは彼れの到底堪ゆる所に非ればなり。彼は陽気を好み多事を好み、活動を好み、変化を好む。彼は一日も懐抱を封鎖する能はず、一日も談論を廃する能
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