る人なりといふ者あり、我輩も亦閣下が謹慎にして、常に出処進退に注意するの周到なるを信ずれども、独り閣下が余りに国家を憂ふるに切なるが為に、反つて自家の本領に背きて、漫然今日の難局に当りたるは、我輩甚だ閣下の為に歎惜する所なり、閣下或は国家の急、敢て一身の利害を顧るに遑あらずと言はむ、此の類の言語は、古来往々愛国者の口より聞く所なりと雖も、国家の急は決して斯る単純なる思想の能く済ふ所に非るを奈何せむや。
曩に閣下の内閣を組織するや、自ら天下に告白して、我れは一介の武弁なりといへり、是恐らくは閣下の謙辞に過ぎざる可しと雖も、其の中亦閣下が自ら知るの明あるをも表示せり、今此の自知の明ありて、尋常愛国者の軌轍を脱する能はず、強て国家の急に赴て之を済ふ所以の経綸なく、而して其の有る所のものは一時姑息の施設に非ずむば則ち行政の紊乱と、議院政略の小成功とを見るのみ、是れ豈閣下の初心ならむや。
相公閣下、閣下にして若し其初心を点検せば、閣下恐らくは一日も現時の位地に晏然たる能はじ、我輩の見る所に依れば閣下は初期議会を切り抜けたる時を以て、正さしく閣下が政治舞台の千秋楽と為すべかりき、蓋し初期議会は、我国方に憲法政治の開闢時代に属し、内外の人、皆半信半疑の眼を以て、政府及議会の行動を凝視したり、現に欧洲の学者中には、憲法政治を以て東洋人種に適せずと論ずるものありしを見るに於て、政府も議会も、当時実に世界の公試験を受くるの位地に在りたりと謂ふべし。果して大衝突は始まれり、議会は殆ど解散の危機を踏まむとしたりき、而して閣下は当時の内閣に首班として惨憺の経営を竭くし、終に能く議会を平和の間に閉会せしむるを得たりしは、固より閣下の名誉ならずと謂ふ可からず、閣下乃ち此の時を以て内閣を退きたるは、其の出処進退亦巧みならずと謂ふ可からず、閣下若し当時の隠退を以て永久の政治的訣別としたらむには、閣下は清浄円満なる晩節を保全し得て、帝国憲法史上の第一頁を飾るの人物たらむなり、而して斯くの如きは実に閣下の初心たりしや疑ふ可からず。
惜いかな、閣下は稀有の愛国者たる故を以て、反つて其初心を喪ひ、国家の急を坐視するに忍びずと称して敢て今日の難局に当り、以て初期議会に博し得たる名誉を台無しにするの過失を行ひたり、一昨年閣下が内閣を組織するや、識者は閣下の聡明に異状あるを注目して、窃かに其前途を危みたり、是れ他なし、議会開設以来既に十余年を経過したる時代は、人文の進歩よりいふも、内外形勢の変化より見るも、到底前世紀の賢人等が出現す可き幕ならずと信じたればなり、我輩は必ずしも此見地に雷同するものには非ず、世の所謂る前世紀の賢人中にも、智力根気共に強壮にして、尚ほ能く時代の精神を駆使する人物なきに非ざれども、而も此の見地は、大体に於て真理を外づれざる鉄案たるは論ずるまでもなし。
相公閣下、我輩は閣下の尊敬す可き賢人たるを知る、之を知るが故に、我輩は閣下の生涯に汚点少なからむことを望みたり、之れを望みたるが故に、今や其晩節を傷けたるを見て、閣下の為に※[#「りっしんべん+宛」、第3水準1−84−51]惜するの情も亦随つて切なり、之れを※[#「りっしんべん+宛」、第3水準1−84−51]惜するが故に、乃ち忠実に閣下に向て其の処決を勧告す、是れ負傷したる閣下の晩節に対する唯一の臨床療法なればなり。
※[#始め二重括弧、1−2−54]三※[#終わり二重括弧、1−2−55]
山県相公閣下、閣下にして若し初期議会以後の時代を領解し、曾て超然として政界の外に高踏したりとせよ、我輩は決して閣下の徳を頌するに吝ならじ、顧ふに閣下は前には軍制の改革家として、全国皆兵の主義を実行し、後には市町村制度の創意者として、地方自治の基礎を確立したる人なり、閣下は唯だ此の二大事績に依りて、優に明治第一流の元勲たる名誉を要求し得可し、又何ぞ多きを望みて反つて大に失ふの愚を為す可けむや。
閣下が明治五年陸軍の編制に着手するや、之に反対せるものは、当時軍職を失ひたる多数の旧藩士のみに止まらず、彼の軍人の大首領たる西郷隆盛すらも、亦実に之れに異議を唱へたりき、而も閣下は敢て之れを畏れずして其の所信を断行し、遂に全国皆兵の徴兵令を発表したりしは、之れも伊藤侯が憲法制定の事業に比して、寧ろ著手の困難なりしを疑はず、而して閣下が此の軍制の改革に成功するや、一躍して直に陸軍部内の指導者と為り、特に十年の役には、閣下の最も憚りたる西郷党を残滅して、武力に誇れる薩閥の根拠を抜き以て陸軍省をして遂に長閥の勢力範囲たらしめたりき、今や閣下は、元帥の待遇と陸軍大将の軍職とを有し、凡そ軍人としては此の上もなき最高の位置及び之れに伴へる君寵を享け、即ち所謂る功成り名遂げ、復た世に遺憾なきの人なり、顧みて更に大政
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