、之れを伊藤侯に比すれば、共に人気ある総理大臣たるを得ざりき。伊藤侯の内閣を組織するや、最初は常に天下に歓迎せられて、最後は常に国民を失望せしむ。侯が明治十八年自ら総理大臣と為りて第一次の内閣を組織するや、始めて政綱を発表し、官制を改革し、文官任用令を設け、天下をして斉しく其の風采を想望せしめたりき。而も其の辞令の立派なる割合には実際に成功したる事績甚だ少かりしのみならず、繁文縟礼の弊反つて此間に生じたり。加ふるに浮泛なる欧化政略は、内治外交の両面に救ふ可からざる壊膿を生じて、遂に内閣の瓦解を見るに至りき。第二次内閣は、選挙干渉に失敗したる松方内閣の後に組織せられ、山県、黒田、井上、大山、仁礼の薩長元老も相携へて入閣したれば、世間之れを称して元勲内閣といひたりき。侯は意気軒昂我れ能く政党の外に超然として議会を操縦するを得可しと信じたるに拘らず、議会は寧ろ侯の行動を非立憲的と為して、荐りに不信任動議を提出したりき。一たびは和衷協同の勅諭を奏請したりき。二たびは議会の解散を断行したりき。而も議会は容易に武装を解くを肯んぜずして依然内閣の攻撃を事としたりき。此にて侯は超然主義の到底保持す可からざるを自覚し、自由党と提携して内閣組織に多少の変更を加へたりと雖も、其の姑息※[#「糸+彌」、15−下−6]縫の政策手段は、漸く内閣の統一を破りて内部より崩壊したりき。
第三次の内閣組織に際しては、侯は初め之を大隈板垣両伯に謀りて、所謂る三角同盟を作らむと試みたりき。其の行はれざるに及で、一切政党との交渉を避けて超然内閣を組織したりしは、其の無謀固より論ずるに足らず。是れ半歳ならずして内閣総辞職の止む可からざりし所以なり。されど侯は此の失敗に依りて其の政治思想に一大発展を為したり。乃ち今日政友会を組織して自ら政党の首領と為り、其党員を率いて此に第四次内閣を組織したるは、是れ安んぞ超然主義の失敗に原本せざるなきを知らむや。侯は大隈伯に比すれば、独自一己の識見に欠くる所あり。大隈伯は明治十四年改進党を組織してより、飽くまで政党内閣を主張し、且つ其の主張の早晩実行せらる可き時機あるを確信して、毫も疑はざりしに反して、侯は政党内閣の運命に対して近年まで半信半疑の間に彷徨したりき。今や侯は政党内閣を組織して、憲政の完成を以て自ら任とせり。而かも今日は侯の実力を試験するに最も適当なる時代なるを
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